2013年11月16日土曜日

ジャカルタの猿まわし禁止令に寄せて

ジャカルタで路上での猿まわしが禁止になり、路上での一斉摘発が行われた。猿を媒介とする疫病の防止、動物虐待、渋滞の悪化などを理由としている。猿まわしは職業訓練を受けさせて他の職業に就かせ、猿はラグナンの動物・魚類保護観察センターで14日間観察した後、異常がなければ自然界へ放たれる。

ところで、インドネシアでの猿まわしの歴史は意外に古いようだ。きちんと確認することはできないが、19世紀末に猿や犬を使った演芸が発展したという記述があるという。その後、猿まわしは主に西ジャワや東ジャワで発達したが、1980年代にいったん消えかかった。しかし、まもなく復活し、それまでの集落などをまわる形から、人の集まる都市の路上などへ活動の場を求めていった。

『コンパス』紙の記事によると、デデという猿まわしの1日の稼ぎは4〜10万ルピア程度。デデは猿の調教師でもあり、4〜7ヵ月の調教期間に4〜5匹まとめて調教し、1匹当たり70〜100万ルピアを稼ぐという。過去12年間に、数十人の猿まわしから調教を頼まれたそうである。

筆者も猿まわしには個人的な思い出がある。マカッサル(当時はまだウジュンパンダンという名前の町だった)に住んでいた1997年、娘がまもなく2歳になるとき、知り合いの家族の子供たちを我が家に呼んで、みんなで猿まわしを楽しんだことがある。


我が家の前を通る猿まわしを呼び止め、まず、彼らの居場所を訪ねて話を聞き、我が家で演じてもらうことをお願いした。猿まわしは、たしかジャワ人の一家で、中華街の一角にジャワ人同士がひっそりと寄り添って住んでいた。

我が家で演じてもらったときには、猿が自転車に乗ったり、こっけいな芸を一通り披露した後、最後にニシキヘビが登場し、猿まわしがそれを体に巻き付けて、「おーっ」とみんなで驚いて終わる、というパターンだった。もちろん、子供たちは大喜びだった。今になって聞くと、娘はよく覚えてない様子なのだが。

日本での猿まわしは、すでに鎌倉時代にはあったようだ。小沢昭一「日本の放浪芸」によると、和歌山県と山口県に猿まわしの里があったそうである。もともとは、正月の祝福芸、祈祷芸であったものが、季節に関係なく、道端や門付けで行われるようになった。「継子いじめ」「金色夜叉」などが定番だったようだが、須藤功「写真ものがたり・昭和の暮らし10」によると、「三番叟」や「娘道成寺」も演じられたそうである(演目の中身はよく分からないが)。

その後、高度成長期の1960年代半ば、猿まわしは姿を消した。猿まわしたちは、社会的に差別を受けていた人々で、生計を立てるために猿まわしを行っていたのだが、猿まわし自体に民俗学的・文化的な意味を見出した宮本常一氏によって、猿まわしの復活運動が起こる。そして1978年、山口県光市で「周防猿まわしの会」が復活するに至る。宮本氏は、今西錦司氏らの属する京都大学の霊長類研究グループにも話をつなげ、猿まわしを民俗学的に発展・継承するために奔走した。

今、ジャカルタの猿まわし禁止令を見ながら、日本の猿まわしの過去を思い起こしている。日本の高度成長期に消えていった様々なもののなかに、猿まわしがあった。日本の1970年代とも見える今のインドネシアにおいても、様々なものが消え始めている。その一つが、やはり猿まわしなのであった。動物虐待という話が、社会が豊かになるにつれて声高になっていくことも、日本とインドネシアで共通しているような気がする。

残念ながら、インドネシアでは猿まわしを民俗学的な見地から継承すべき対象とみる動きは見られない。猿まわしを単なる稼ぎの道具としてしか見られないのは、宮本氏が奔走する前の日本でも同じことだったのかもしれない。実際、宮本氏がこの世にいない今、日本の猿まわしはすっかり商業化し、日光猿軍団のようなエンターテイメントとして残った。インドネシアで同じようなことが起こったとしても、猿まわしの民俗学的・文化的価値があるかどうかも省みられないだろう。

ジャワ人の猿まわしも、もしかしたら社会の最下層で差別を受けていた人々だったのではないか。そんなことを思いながら、どこかに猿まわしの継承価値がありはしないかと考えている。

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