先週、ジャカルタの「父」を連れて日本からジャカルタへ戻り、2日間、ジャカルタで過ごした。久々に、コタで行きつけの麺屋へ行って、ワンタン麺にナシチャンプルまで食べて、大満足で、来たときと同様、グロドックからブロックM行きのトランスジャカルタに乗った。
しばらくして、大きなバッグとギターケースを抱えた女性がトランスジャカルタに乗り込んできた。トランスジャカルタのバスの連結部に立ち、私のすぐ隣にいた。ふと、ギターケースを見ると、JALANANというステッカーが貼ってある。もしかして・・・。
女性は携帯電話で話を始めた。バスの連結部なので、ギターケースを抱えてバッグを手に電話するのはなかなか大変そう。その女性と目を合わせた後、ギターケースをそっと支えてあげた。
そう、この女性は、映画JALANANのティティさんだった。電話の内容からすると、スラバヤのモールで演奏した後、ジャカルタへ戻ってきたようだった。バンドンでも演奏したらしい。
JALANANについては、じゃかるた新聞に小川忠さんのエッセイがあるので参考にして欲しい。
夢と哀しみのスディルマン通り
ティティさんは、他の乗客とはやや違う雰囲気を持った女性だった。聡明な顔立ちの一方で、どこか翳のある表情を時おり見せた。
ブロックMでトランスジャカルタを降りた。別の降車ドアから降りたティティさんは、もう姿が見えなくなっていた。もしかすると、そのうち、テレビで会えるかもしれない、などと思った。
筆者にとって、数えきれないほど乗ってきたバスは、インドネシアについての様々な側面を学んできた場だった。
20年以上前に留学していたとき、バスに乗り込んできた歌い手のなかに、当時の27州の歌をメドレーでひたすら歌い続ける男性がいた。歌がうまいだけでなく、凄みさえ感じた。その男性とは、バスのなかで頻繁に遭遇したのだが、同じ歌を2回と聞くことはなかった。彼は今、どうしているのだろうか。
トランスジャカルタの車内はエアコンがよく効き、静かである。ピーナッツ売りも歌唄いも乗ってこない。「カーシーハーン(かわいそー)」と言いながら床を這ってくる物乞いも来ない。今となっては、そんな雑然としたボロボロの冷房なしバスが愛おしく思えるほどである。
豊かになるインドネシアの一つの側面ではある。ティティさんらは、そんなインドネシアをどう駆け抜けていくのだろうか。
2014年4月28日月曜日
2014年4月26日土曜日
プトラくんとプトリちゃん
今回の「父」との日本旅行中に、京都で西本願寺の聞法(もんぼう)会館という宿に宿泊した。和洋室に「父」とその妻、私の3人で泊まり、私は和室で寝た。なかなか快適だった。
そこのお土産物屋コーナーで見つけたのが、この文房具セット。
プトラくんとプトリちゃん、とある。これは、本願寺のキャラクターらしい。しかも、ゆるキャラで、着ぐるみまであるようだ。
天真寺日記
インドネシア語では、プトラといえば「息子」、プトリといえば「娘」である。たとえば、スハルト元大統領の3男はフトモ・マンダラ・プトラという名前であり、スカルノ初代大統領の娘で闘争民主党党首の名前は、メガワティ・スカルノプトリ、である。
プトラもプトリもサンスクリット語起源ということで、本願寺のキャラクターとして愛されているようだが、「息子」「娘」との思いがけない「出会い」であった。
そこのお土産物屋コーナーで見つけたのが、この文房具セット。
プトラくんとプトリちゃん、とある。これは、本願寺のキャラクターらしい。しかも、ゆるキャラで、着ぐるみまであるようだ。
天真寺日記
インドネシア語では、プトラといえば「息子」、プトリといえば「娘」である。たとえば、スハルト元大統領の3男はフトモ・マンダラ・プトラという名前であり、スカルノ初代大統領の娘で闘争民主党党首の名前は、メガワティ・スカルノプトリ、である。
プトラもプトリもサンスクリット語起源ということで、本願寺のキャラクターとして愛されているようだが、「息子」「娘」との思いがけない「出会い」であった。
2014年4月23日水曜日
「父」と日本旅行中(2)
後半は、「父」とその妻を連れて大阪・京都へ行った。毎日、ホテルが変わるなど、84歳の「父」には厳しいスケジュールで、さすがにちょっと疲れが溜まってきた様子だった。
大阪のメインは、20年前、私の前の職場へ客員研究員として来ていたときに、ホームステイした先のご夫妻との再会である。正確にいうと、大阪ではなく宝塚である(宝塚は兵庫県だし・・・)。
実は、数か月前、「父」からこのご夫妻の連絡先を探せとの求めがあった。分かっていたのは名前と宝塚に住んでいるということだけ。「日本人だから全ての日本人を知っているはずということはありえない」と何度も言って諦めさせようとしたのだが、「それなら電話帳を使って探せ」とまで言われた。
日本へ帰国した折に、宝塚まで行って電話帳で探さなければならないのか、とあきれていたら、「ほれ、これが電子メールアドレスだ」と「父」から連絡があった。早速、そのアドレスへメールを送ってみた。一度戻ってきた。そのアドレスのドメインが新しく変わっている可能性がありそうなので、新しいドメインにして送ったら、戻ってこないので、それで安心していた。しかし、インドネシアを発つ数日前になっても何も返事がない。
と思っていたら、再び「父」から「メールはどうした? これがメールアドレスだ。ちゃんと連絡しろ」と再度の連絡があった。メールアドレスが前のと違っていた。新しいアドレスへ送ったところ、翌日、戦法から「是非お会いしたい」とのメールが帰ってきた。
そんなこんなで、宝塚のホームステイ先と4月20日に再会することができた。そして、翌21日、ホームステイ先の奥様と「父」とその妻の3人で、宝塚大劇場で宝塚歌劇を堪能した。最初は「父」だけ行けばいいと乗り気でなかった「父」の妻も、「とってもきれいな人がたくさんでてきたのよー。ステキ~」と大感激の様子。「父」も満足の様子だった。
宝塚の街は、宝塚歌劇の存在を前提にし、かつての遊園地などがなくなった今、景観を重視した落ち着いた住みやすい街となっていた。市の花であるハナミズキが沿道に咲き誇り、宝塚大劇場周辺は、色合いを統一して美観を保っている。時々、すらっと姿勢の良い背の高い女性が街なかを歩いているのに出会う。宝塚歌劇の女優さんである。
宝塚でホームステイ先のご夫妻と別れを惜しんだ後、京都へ移動。ちょうど帰宅ラッシュ時で、荷物もあるので、時間はかかるが、JR宝塚からJR京都線の高槻まで普通電車に乗り、高槻で京都行へ乗り換えた。ちょっと長旅で疲れた様子。
4月22日、京都では、歩くのが辛い「父」のためにタクシーをチャーターし、金閣寺と龍安寺に行った。金閣寺は外国人観光客でごった返しており、すごい人数だった。そんななかで「父」はインドネシアから来た観光客を見つけ、満足そうだった。
龍安寺では、石庭の良さが今ひとつよく分からなかった様子。京都の寺院を巡って様々な庭を愛でるには、あと数日は必要だと納得してもらった。
蕎麦屋で昼食の後、京都大学東南アジア研究所を訪問。旧来の知人である水野教授の案内で図書館をまわり、最後はインドネシア語で歓談。久々にインドネシア語全開で、思う存分語り合った後、タクシーで京都駅へ送ってもらい、新幹線で東京へ戻った。
東京では、東京スカイツリーの見えるホテルにチェックイン。雨で見えないかと思ったスカイツリーは、最上部を除いておおかた見え、「父」は満足。でも、「父」が初めて東京を訪れた1959年の東京タワーにまつわる思い出とどうしても混ざってしまうようだった。
ちょっとお疲れ気味の「父」だが、20年前と日本は大きく変わった、と繰り返していた。鉄道がより便利になったこと、あちこち花がきれいに植えられていること、エレベーターやエスカレーターが備えられて歩きやすくなっていること、外国人の姿がずっと多くなったことなど、いろいろ「父」なりに感じたことがあったようだ。そして、今回の旅を題材に、昔と今の日本についての印象を書いてみたいとまで言っている。その意欲には脱帽するしかない。
4月24日のガルーダ便で、インドネシアへ戻る。筆者も「父」と一緒に戻る。
大阪のメインは、20年前、私の前の職場へ客員研究員として来ていたときに、ホームステイした先のご夫妻との再会である。正確にいうと、大阪ではなく宝塚である(宝塚は兵庫県だし・・・)。
実は、数か月前、「父」からこのご夫妻の連絡先を探せとの求めがあった。分かっていたのは名前と宝塚に住んでいるということだけ。「日本人だから全ての日本人を知っているはずということはありえない」と何度も言って諦めさせようとしたのだが、「それなら電話帳を使って探せ」とまで言われた。
日本へ帰国した折に、宝塚まで行って電話帳で探さなければならないのか、とあきれていたら、「ほれ、これが電子メールアドレスだ」と「父」から連絡があった。早速、そのアドレスへメールを送ってみた。一度戻ってきた。そのアドレスのドメインが新しく変わっている可能性がありそうなので、新しいドメインにして送ったら、戻ってこないので、それで安心していた。しかし、インドネシアを発つ数日前になっても何も返事がない。
と思っていたら、再び「父」から「メールはどうした? これがメールアドレスだ。ちゃんと連絡しろ」と再度の連絡があった。メールアドレスが前のと違っていた。新しいアドレスへ送ったところ、翌日、戦法から「是非お会いしたい」とのメールが帰ってきた。
そんなこんなで、宝塚のホームステイ先と4月20日に再会することができた。そして、翌21日、ホームステイ先の奥様と「父」とその妻の3人で、宝塚大劇場で宝塚歌劇を堪能した。最初は「父」だけ行けばいいと乗り気でなかった「父」の妻も、「とってもきれいな人がたくさんでてきたのよー。ステキ~」と大感激の様子。「父」も満足の様子だった。
宝塚の街は、宝塚歌劇の存在を前提にし、かつての遊園地などがなくなった今、景観を重視した落ち着いた住みやすい街となっていた。市の花であるハナミズキが沿道に咲き誇り、宝塚大劇場周辺は、色合いを統一して美観を保っている。時々、すらっと姿勢の良い背の高い女性が街なかを歩いているのに出会う。宝塚歌劇の女優さんである。
宝塚でホームステイ先のご夫妻と別れを惜しんだ後、京都へ移動。ちょうど帰宅ラッシュ時で、荷物もあるので、時間はかかるが、JR宝塚からJR京都線の高槻まで普通電車に乗り、高槻で京都行へ乗り換えた。ちょっと長旅で疲れた様子。
4月22日、京都では、歩くのが辛い「父」のためにタクシーをチャーターし、金閣寺と龍安寺に行った。金閣寺は外国人観光客でごった返しており、すごい人数だった。そんななかで「父」はインドネシアから来た観光客を見つけ、満足そうだった。
龍安寺では、石庭の良さが今ひとつよく分からなかった様子。京都の寺院を巡って様々な庭を愛でるには、あと数日は必要だと納得してもらった。
蕎麦屋で昼食の後、京都大学東南アジア研究所を訪問。旧来の知人である水野教授の案内で図書館をまわり、最後はインドネシア語で歓談。久々にインドネシア語全開で、思う存分語り合った後、タクシーで京都駅へ送ってもらい、新幹線で東京へ戻った。
東京では、東京スカイツリーの見えるホテルにチェックイン。雨で見えないかと思ったスカイツリーは、最上部を除いておおかた見え、「父」は満足。でも、「父」が初めて東京を訪れた1959年の東京タワーにまつわる思い出とどうしても混ざってしまうようだった。
ちょっとお疲れ気味の「父」だが、20年前と日本は大きく変わった、と繰り返していた。鉄道がより便利になったこと、あちこち花がきれいに植えられていること、エレベーターやエスカレーターが備えられて歩きやすくなっていること、外国人の姿がずっと多くなったことなど、いろいろ「父」なりに感じたことがあったようだ。そして、今回の旅を題材に、昔と今の日本についての印象を書いてみたいとまで言っている。その意欲には脱帽するしかない。
4月24日のガルーダ便で、インドネシアへ戻る。筆者も「父」と一緒に戻る。
2014年4月19日土曜日
「父」と日本旅行中(1)
4月16〜23日は、ジャカルタの「父」ハリリ・ハディ氏とその奥様と一緒に日本に来ている。
「父」にはすでに30年近くお世話になっている。インドネシアには何人かの「父」や「母」がいるが、そのなかでも最も長くお付き合いしている方である。
初めて「父」が来日したのは1959年、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校で学んだ帰りに3ヵ月間立ち寄ったときである。当時、一橋大学の板垣與一先生(故人)にお世話になったそうである。
その後、1969年に、できたばかりのアジア経済研究所(アジ研)のインドネシアからの初代客員研究員として滞在、1991〜1992年には2回めの客員研究員でアジ研に籍をおいた。当時、筆者は、アジ研の海外派遣員としてジャカルタにおり、インドネシア大学大学院で学んでいた。「父」に保証人をお願いしていたので、滞在ビザ延長のための保証人レターを書いてもらうのに、ちょっと苦労したことを覚えている。
「父」はインドネシア大学の先生だったが、後にインドネシア国家開発企画庁(バペナス)に移り、最後は、バペナスの地域開発担当次官で定年退職となった。
今回の「父」の訪問はそのとき以来、20数年ぶりである。「父」はすでに84歳、毎年、メッカへウムロー(巡礼期間以外にメッカを訪れること)で行っているが、今回はどうしても日本へ行きたくなり、私がフルアテンドで付き添うことになったのである。
私には、「父」にフルアテンドをしなければならないと思う理由がいろいろある。私にとっての恩人なのである。
16日に到着し、17日は、サクラをみるために、東北新幹線で筆者の故郷・福島へお連れした。花見山は全山満開で、福島の春の美しさを堪能できた。
花見山の後は、信夫山の第1展望台にのぼって、福島旧市街を展望した。福島の空は、ちょっと白く曇っていた。
「父」をお連れしながら、福島のことを思っていた。福島へいろいろな人が訪れるということが、今後の福島にとってどんなプラス・マイナスの意味を持っているのか、と。でも、富士・箱根や鎌倉へ行きたいと当初言っていた「父」が、「お前の田舎を見てみたいから、福島へ行きたい」と言ってくれたのは、正直いって嬉しかった。
「父」には筆者の実家にも寄ってもらい、母にも会ってもらった。あまり人と会うこともない母が一生懸命付き合ってくれた。わずか30分の帰省だったのが残念だったが、福島は日帰りで、筆者も東京で夜、予定が入っていたのでやむを得なかった。
福島の春の花々の美しさとともに、実家に寄ったのが、まるで夢だったかのような気分になった。
18日は、筆者の昔の職場であり、「父」が客員研究員として籍をおいたアジア経済研究所を訪問した。筆者自身ももうだいぶ訪問していなかったが、会う方会う方、皆、昔の仲間で、本当に懐かしかった。
仲間たちに心のこもった接待を受け、「父」はとても満足そう。途上国研究としては世界最大級の蔵書数を誇るアジ研図書館では、かつて、「父」が最初に客員研究員だったときの客員研究員レポートがみつかり、大喜びだった。
日曜からは、大阪、京都へ「父」をお連れする。
「父」にはすでに30年近くお世話になっている。インドネシアには何人かの「父」や「母」がいるが、そのなかでも最も長くお付き合いしている方である。
初めて「父」が来日したのは1959年、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校で学んだ帰りに3ヵ月間立ち寄ったときである。当時、一橋大学の板垣與一先生(故人)にお世話になったそうである。
その後、1969年に、できたばかりのアジア経済研究所(アジ研)のインドネシアからの初代客員研究員として滞在、1991〜1992年には2回めの客員研究員でアジ研に籍をおいた。当時、筆者は、アジ研の海外派遣員としてジャカルタにおり、インドネシア大学大学院で学んでいた。「父」に保証人をお願いしていたので、滞在ビザ延長のための保証人レターを書いてもらうのに、ちょっと苦労したことを覚えている。
「父」はインドネシア大学の先生だったが、後にインドネシア国家開発企画庁(バペナス)に移り、最後は、バペナスの地域開発担当次官で定年退職となった。
今回の「父」の訪問はそのとき以来、20数年ぶりである。「父」はすでに84歳、毎年、メッカへウムロー(巡礼期間以外にメッカを訪れること)で行っているが、今回はどうしても日本へ行きたくなり、私がフルアテンドで付き添うことになったのである。
私には、「父」にフルアテンドをしなければならないと思う理由がいろいろある。私にとっての恩人なのである。
16日に到着し、17日は、サクラをみるために、東北新幹線で筆者の故郷・福島へお連れした。花見山は全山満開で、福島の春の美しさを堪能できた。
花見山の後は、信夫山の第1展望台にのぼって、福島旧市街を展望した。福島の空は、ちょっと白く曇っていた。
「父」をお連れしながら、福島のことを思っていた。福島へいろいろな人が訪れるということが、今後の福島にとってどんなプラス・マイナスの意味を持っているのか、と。でも、富士・箱根や鎌倉へ行きたいと当初言っていた「父」が、「お前の田舎を見てみたいから、福島へ行きたい」と言ってくれたのは、正直いって嬉しかった。
「父」には筆者の実家にも寄ってもらい、母にも会ってもらった。あまり人と会うこともない母が一生懸命付き合ってくれた。わずか30分の帰省だったのが残念だったが、福島は日帰りで、筆者も東京で夜、予定が入っていたのでやむを得なかった。
福島の春の花々の美しさとともに、実家に寄ったのが、まるで夢だったかのような気分になった。
18日は、筆者の昔の職場であり、「父」が客員研究員として籍をおいたアジア経済研究所を訪問した。筆者自身ももうだいぶ訪問していなかったが、会う方会う方、皆、昔の仲間で、本当に懐かしかった。
仲間たちに心のこもった接待を受け、「父」はとても満足そう。途上国研究としては世界最大級の蔵書数を誇るアジ研図書館では、かつて、「父」が最初に客員研究員だったときの客員研究員レポートがみつかり、大喜びだった。
日曜からは、大阪、京都へ「父」をお連れする。
2014年4月11日金曜日
スラバヤ観光地図2014完成!
「スラバヤについて興味はあるけど、どこに何があるかよく分からないんだよね」という声を時々聞く。日本語で書かれた観光ガイド地図のようなものがあればいいのになあ、と思っていたら・・・。実は、それがあった。
日本語で書かれた「スラバヤ観光地図2014」。作ったのは、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の大学3年生。同学科では、日本語教育の一環として、この地図を作っている。次も、新3年生がこの地図の改訂版を作る、とのことだ。
一見したが、意外によく出来ている。施設の説明などでは、住所、電話番号、営業時間も書かれている。筆者がこれまでさんざん見たことのある地方政府の日本語観光パンフレットよりもはるかに出来がよい。
もちろん、最新情報に基づいて、訂正すべき箇所がないわけではない。それは指摘して訂正していく必要がある。でも、スラバヤについて日本語で書かれた地図はおそらくこれが最初ではないだろうか。
筆者としては、この地図を電子データ化して、少なくともPDF化して、タブレット端末でも見られるようにするとよいと思った。そうすれば、スラバヤを訪れる人たちが前もってダウンロードして使えるようになる。
さて、地図を作ったら、その次はどうするのか。そう、もちろん、地図を使って、スラバヤの街を歩くのである。その際、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の学生たちが日本人の方々をガイドする用意がある、とのことである。できれば、古い建物をめぐるコース、地元の市場の探検コース、宗教寺院をまわるコース、食べ歩きコース、などのコースを作って、この地図を片手に街歩きできるといいなと思う。
この地図を入手されたい方、大学の学生たちと一緒にスラバヤの街歩きをされたい方は、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科までご連絡を。もちろん日本語OKである。
国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科
Tel: +62-31-5035676, Fax: +62-31-503-5808
Email: japanologyunair@yahoo.com
担当: 清水千恵さん(JICA青年海外協力隊員)
一見したが、意外によく出来ている。施設の説明などでは、住所、電話番号、営業時間も書かれている。筆者がこれまでさんざん見たことのある地方政府の日本語観光パンフレットよりもはるかに出来がよい。
もちろん、最新情報に基づいて、訂正すべき箇所がないわけではない。それは指摘して訂正していく必要がある。でも、スラバヤについて日本語で書かれた地図はおそらくこれが最初ではないだろうか。
筆者としては、この地図を電子データ化して、少なくともPDF化して、タブレット端末でも見られるようにするとよいと思った。そうすれば、スラバヤを訪れる人たちが前もってダウンロードして使えるようになる。
さて、地図を作ったら、その次はどうするのか。そう、もちろん、地図を使って、スラバヤの街を歩くのである。その際、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の学生たちが日本人の方々をガイドする用意がある、とのことである。できれば、古い建物をめぐるコース、地元の市場の探検コース、宗教寺院をまわるコース、食べ歩きコース、などのコースを作って、この地図を片手に街歩きできるといいなと思う。
この地図を入手されたい方、大学の学生たちと一緒にスラバヤの街歩きをされたい方は、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科までご連絡を。もちろん日本語OKである。
国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科
Tel: +62-31-5035676, Fax: +62-31-503-5808
Email: japanologyunair@yahoo.com
担当: 清水千恵さん(JICA青年海外協力隊員)
2014年4月9日水曜日
ソロの工場に掲げられた標語集
先週の中ジャワ州ソロ(スラカルタ)への出張では、2件の工場訪問も行なった。いずれも繊維関係の有名工場で、そのうちの1社は、従業員数4万人を抱えるインドネシア最大の繊維・縫製企業である。
4万人の従業員を抱える企業では、上のような写真の縫製工場が11棟ある。これ以外に、今回は見学できなかったが、生地を製造する大きな紡績工場が数棟あり、この企業だけで日本全体の2倍以上、韓国全体とほぼ同じ紡績生産を行っているというから、その規模は桁違いである。
中ジャワ州は、ソロを始めとして、ジャカルタ周辺や中国からの繊維関係企業の移転あるいはOEM生産委託先として、注目を集めている。それは、単に最低賃金が低いからだけでなく、このような繊維・縫製関連の実績や基盤がかなり整っていることも背景にある。
今回訪問した2つの工場では、工場内に掲げられた標語がなかなか興味深かった。そのいくつかを以下に紹介する。
「おしゃべりは少なく、働きは多く」。韻を踏んでいるのは、インドネシアの詩ではよくあること。とにかく、インドネシアの人々はおしゃべりが好き。それが職場の雰囲気を和らげているのだが、「おしゃべり禁止!」としないところが興味深い。
「頭のいい人は常に方法を探す。怠け者は常に理由を探す」。問題に直面したときに、どう対応するか、という話なのだろう。まずは自分を守るために「自分は悪くない」と主張し、言い訳を並べる、というのは、何もインドネシア人に限ったことではない。
「怒り。1度怒ると、喜びがなくなる。2度怒ると、理性が飛んで行く。3度怒ると、血圧が上がる。4回怒ると、友だちが去っていく。5回怒ると、すぐに老ける。6回怒ると、罪の扉が開かれる」。最後の6回目のは、怒ること自体が罪となり、地獄への門が開かれる、という意味なのだろうか。
「心。喜びの心は、力強い薬である。頑なな心は、行き止まりにぶつかる。柔らかな心は、親友を招く。貪欲な心は、罠をつくる。きれいな心は、問題を遠ざける」。前の「怒り」と対峙して掲げられていた。もう一つあるのだが、荷物が置かれていて、読み取れなかった。
これらの標語は、社長訓なのだろうか。私には、おそらく、従業員が自分たちで考えて作ったものではないかと思えた。
日本の工場などでは、規律を守らせたり、安全を換気したりする、体言止めの硬い標語が多い印象だったからか、ソロの2工場で見た標語は、思わず「そうだよな」と頷いてしまう、柔らかさを感じた。
標語という些細なものではあるが、職場にストレスを与え続けず、かつ、個々人のモチベーションを高められるような環境づくりという意味では、日本にとっても参考になるかもしれない。
4万人の従業員を抱える企業では、上のような写真の縫製工場が11棟ある。これ以外に、今回は見学できなかったが、生地を製造する大きな紡績工場が数棟あり、この企業だけで日本全体の2倍以上、韓国全体とほぼ同じ紡績生産を行っているというから、その規模は桁違いである。
中ジャワ州は、ソロを始めとして、ジャカルタ周辺や中国からの繊維関係企業の移転あるいはOEM生産委託先として、注目を集めている。それは、単に最低賃金が低いからだけでなく、このような繊維・縫製関連の実績や基盤がかなり整っていることも背景にある。
今回訪問した2つの工場では、工場内に掲げられた標語がなかなか興味深かった。そのいくつかを以下に紹介する。
「おしゃべりは少なく、働きは多く」。韻を踏んでいるのは、インドネシアの詩ではよくあること。とにかく、インドネシアの人々はおしゃべりが好き。それが職場の雰囲気を和らげているのだが、「おしゃべり禁止!」としないところが興味深い。
「頭のいい人は常に方法を探す。怠け者は常に理由を探す」。問題に直面したときに、どう対応するか、という話なのだろう。まずは自分を守るために「自分は悪くない」と主張し、言い訳を並べる、というのは、何もインドネシア人に限ったことではない。
「怒り。1度怒ると、喜びがなくなる。2度怒ると、理性が飛んで行く。3度怒ると、血圧が上がる。4回怒ると、友だちが去っていく。5回怒ると、すぐに老ける。6回怒ると、罪の扉が開かれる」。最後の6回目のは、怒ること自体が罪となり、地獄への門が開かれる、という意味なのだろうか。
「心。喜びの心は、力強い薬である。頑なな心は、行き止まりにぶつかる。柔らかな心は、親友を招く。貪欲な心は、罠をつくる。きれいな心は、問題を遠ざける」。前の「怒り」と対峙して掲げられていた。もう一つあるのだが、荷物が置かれていて、読み取れなかった。
これらの標語は、社長訓なのだろうか。私には、おそらく、従業員が自分たちで考えて作ったものではないかと思えた。
日本の工場などでは、規律を守らせたり、安全を換気したりする、体言止めの硬い標語が多い印象だったからか、ソロの2工場で見た標語は、思わず「そうだよな」と頷いてしまう、柔らかさを感じた。
標語という些細なものではあるが、職場にストレスを与え続けず、かつ、個々人のモチベーションを高められるような環境づくりという意味では、日本にとっても参考になるかもしれない。
2014年4月6日日曜日
2014年4月5日土曜日
ウォノギリ県の熱血県知事
4月3日、ある企業の方と一緒に中ジャワ州ウォノギリ県へ行った。
ウォノギリ県はソロ(スラカルタ)市から南東へ車で約1時間半、山がちの地形で、出稼ぎの多い貧しい地域として有名だった。若い女性は、ジャカルタなどで家事手伝いやベビーシッターとして働き、男は工事現場などで単純労働力を提供した。経済が発展する現在、ジャカルタ周辺の工場労働者となる者が増えたという。
実際、ジャカルタ=ウォノギリ間には直行バスが何本もある。地元では雇用機会が少なく、夜行バスでジャカルタへ出て働き口を探す。ウォノギリ出身者は、人口圧の高く、雇用機会の乏しいジャワの農村からジャカルタなどの都会を押し出されていく典型的な労働力とみなされていた。
それでも昨今、渋滞や洪水、賃金上昇など、ジャカルタ周辺の投資環境が悪化するなかで、低い最低賃金を求めて中ジャワ州へ企業移転を図るケースが増えてきた。それでも、昔のイメージが強かったからか、ウォノギリ県は取り残されているのではないかと思っていた。
実際は違っていた。貧しくて可哀想なウォノギリ県の姿は影を潜め、企業移転を積極的に受けようとする姿が印象的だった。
企業の方は、ウォノギリ県知事のダナル・ラフマント氏とアポを取ったということだったが、実際に行ってみると、アポは全く取られていなかった。急遽、10分でもいいから会えるようにと、企業の方の知り合いの方が動いて、県知事と会えることになった。
指定場所へ行くと、先客がいた。韓国系企業の方々だった。西ジャワ州かスバンからウォノギリへ工場を移転するという。彼らはすでに3回、ウォノギリ県を訪れており、今回で用地取得の青写真がほぼ決まったようであった。
彼らとの会合を終えた県知事が我々に会ってくれることになった。10分と思っていたが、30分大丈夫とのこと。「韓国系企業は5社程度が頻繁に訪れている」とのことだった。
県知事によると、人口120万人のウォノギリ県のうち、20%が出稼ぎで出ているが、彼らは、「もしウォノギリ県に工場のような雇用機会があればウォノギリで働きたい」という。5月に女性下着を製造する工場、7月に合板工場が操業を開始し、合わせて4000人以上の雇用機会が生まれる予定である。
県内には石灰石が豊富で、セメント工場ができる予定であり、インド洋側にできるそのセメント会社のジェッター付きの港を他企業も利用できるようにする。
ウォノギリ県政府は投資誘致のためにどれぐらい協力的なのか。筆者自身のスラウェシなどでの経験からすると、発展から取り残された投資の来ない地域では、企業投資は役人や地元有力者にとっての格好のたかりの対象になる。ウォノギリ県もそんな要素があるのではないか。色眼鏡で見てしまっている自分がいた。
しかし、次のような県知事の答えにびっくりした。
投資を予定している企業とは、県知事が投資局はじめ関係する県政府機関のトップを一同に集め、投資に必要な許認可や手続についてプレゼンをさせ、それらが何日で終わらせられるかをその場で明言させる。それ以後は、県知事が先頭に立って、許認可や手続などで不都合が出てくればそれを責任をもって解決していく。
ここまでは、威勢のいい県知事ならどこでも言いそうな話だ。でも、一番問題になるのは、用地の取得である。通常は、地権者と企業との間で交渉しなければならない。ところが・・・。
ウォノギリ県では、県知事が前面に立って地権者である住民を説得するというのである。県知事が挙げた事例によると、16ヘクタールの土地を用地として取得したいが、36人の地権者がいる。そう聞いただけでちょっと絶望的な気持ちになるが、県知事が地権者を説得し、わずか2週間ですべての地権者を同意させたのだという。
これは、通常ではあり得ない話ではないか。インドネシアではどこでも、用地買収が困難でインフラ整備が進まない。地権者は地価の値上がりを期待して、なかなか土地を手放そうとしない。
県知事は、工場が来ることで従業員の下宿屋ができ、食事をするワルンが栄え、地域経済への様々な乗数効果が上がることを具体的な数字で示したという。別の事例では、最初は1平方メートル当たり30万ルピアと地権者が言ってきた地価が、このような県知事の説明で地権者が納得し、なんと同11万ルピアへ下がったというのである。
県知事は、我々を前に、30分どころか、1時間以上も熱弁を振るった。そこには、貧しい出稼ぎの地と言われたウォノギリのイメージを変えてやるという、「熱血」県知事の強い意思が現れていた。
県知事は、自ら村々を回って、「工場で働かないか?」とリクルート活動までやった。
そしてまた、ジャカルタなどへ働きに出ている出稼ぎ者に帰ってきてもらうことで、ジャカルタの都市問題の解決にも役立ちたいとも言うのである。彼はジャカルタ首都特別州のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事とも親しいが、彼が大統領になったら、各地方に産業を起こすことを提案したいと言った。
実は、県知事と会った後、別の筋から、ウォノギリ県では800ヘクタールの工業団地建設構想があることを知った。すでに民間が用地を確保しているらしい。
筆者は、ウォノギリ県知事だけが突出しているわけではないことを知っている。中ジャワ州南部は、11月末に訪れたプルバリンガ県なども含めて、ジャカルタ周辺からの繊維関連企業などの工場移転ブームに呼応しようとしている。いい意味での自治体間での投資誘致競争が起きているといってもよい。
ウォノギリ県の2014年最低賃金は月額95万4000ルピア、まだ1万円にも満たない。ウォノギリ県への企業移転に絡む話で日本人が県知事に会いに来たのは今回が初めてとのことである。
インドネシア、とくにジャワ島の地方は動いている。首都ジャカルタは、このダイナミズムを知らない。いや、もしかしたら、「知ろうとしない」のではないか。それは言い過ぎかもしれないが。
ウォノギリ県はソロ(スラカルタ)市から南東へ車で約1時間半、山がちの地形で、出稼ぎの多い貧しい地域として有名だった。若い女性は、ジャカルタなどで家事手伝いやベビーシッターとして働き、男は工事現場などで単純労働力を提供した。経済が発展する現在、ジャカルタ周辺の工場労働者となる者が増えたという。
実際、ジャカルタ=ウォノギリ間には直行バスが何本もある。地元では雇用機会が少なく、夜行バスでジャカルタへ出て働き口を探す。ウォノギリ出身者は、人口圧の高く、雇用機会の乏しいジャワの農村からジャカルタなどの都会を押し出されていく典型的な労働力とみなされていた。
それでも昨今、渋滞や洪水、賃金上昇など、ジャカルタ周辺の投資環境が悪化するなかで、低い最低賃金を求めて中ジャワ州へ企業移転を図るケースが増えてきた。それでも、昔のイメージが強かったからか、ウォノギリ県は取り残されているのではないかと思っていた。
実際は違っていた。貧しくて可哀想なウォノギリ県の姿は影を潜め、企業移転を積極的に受けようとする姿が印象的だった。
企業の方は、ウォノギリ県知事のダナル・ラフマント氏とアポを取ったということだったが、実際に行ってみると、アポは全く取られていなかった。急遽、10分でもいいから会えるようにと、企業の方の知り合いの方が動いて、県知事と会えることになった。
指定場所へ行くと、先客がいた。韓国系企業の方々だった。西ジャワ州かスバンからウォノギリへ工場を移転するという。彼らはすでに3回、ウォノギリ県を訪れており、今回で用地取得の青写真がほぼ決まったようであった。
彼らとの会合を終えた県知事が我々に会ってくれることになった。10分と思っていたが、30分大丈夫とのこと。「韓国系企業は5社程度が頻繁に訪れている」とのことだった。
県知事によると、人口120万人のウォノギリ県のうち、20%が出稼ぎで出ているが、彼らは、「もしウォノギリ県に工場のような雇用機会があればウォノギリで働きたい」という。5月に女性下着を製造する工場、7月に合板工場が操業を開始し、合わせて4000人以上の雇用機会が生まれる予定である。
県内には石灰石が豊富で、セメント工場ができる予定であり、インド洋側にできるそのセメント会社のジェッター付きの港を他企業も利用できるようにする。
ウォノギリ県政府は投資誘致のためにどれぐらい協力的なのか。筆者自身のスラウェシなどでの経験からすると、発展から取り残された投資の来ない地域では、企業投資は役人や地元有力者にとっての格好のたかりの対象になる。ウォノギリ県もそんな要素があるのではないか。色眼鏡で見てしまっている自分がいた。
しかし、次のような県知事の答えにびっくりした。
投資を予定している企業とは、県知事が投資局はじめ関係する県政府機関のトップを一同に集め、投資に必要な許認可や手続についてプレゼンをさせ、それらが何日で終わらせられるかをその場で明言させる。それ以後は、県知事が先頭に立って、許認可や手続などで不都合が出てくればそれを責任をもって解決していく。
ここまでは、威勢のいい県知事ならどこでも言いそうな話だ。でも、一番問題になるのは、用地の取得である。通常は、地権者と企業との間で交渉しなければならない。ところが・・・。
ウォノギリ県では、県知事が前面に立って地権者である住民を説得するというのである。県知事が挙げた事例によると、16ヘクタールの土地を用地として取得したいが、36人の地権者がいる。そう聞いただけでちょっと絶望的な気持ちになるが、県知事が地権者を説得し、わずか2週間ですべての地権者を同意させたのだという。
これは、通常ではあり得ない話ではないか。インドネシアではどこでも、用地買収が困難でインフラ整備が進まない。地権者は地価の値上がりを期待して、なかなか土地を手放そうとしない。
県知事は、工場が来ることで従業員の下宿屋ができ、食事をするワルンが栄え、地域経済への様々な乗数効果が上がることを具体的な数字で示したという。別の事例では、最初は1平方メートル当たり30万ルピアと地権者が言ってきた地価が、このような県知事の説明で地権者が納得し、なんと同11万ルピアへ下がったというのである。
県知事は、我々を前に、30分どころか、1時間以上も熱弁を振るった。そこには、貧しい出稼ぎの地と言われたウォノギリのイメージを変えてやるという、「熱血」県知事の強い意思が現れていた。
県知事は、自ら村々を回って、「工場で働かないか?」とリクルート活動までやった。
そしてまた、ジャカルタなどへ働きに出ている出稼ぎ者に帰ってきてもらうことで、ジャカルタの都市問題の解決にも役立ちたいとも言うのである。彼はジャカルタ首都特別州のジョコ・ウィドド(ジョコウィ)州知事とも親しいが、彼が大統領になったら、各地方に産業を起こすことを提案したいと言った。
実は、県知事と会った後、別の筋から、ウォノギリ県では800ヘクタールの工業団地建設構想があることを知った。すでに民間が用地を確保しているらしい。
筆者は、ウォノギリ県知事だけが突出しているわけではないことを知っている。中ジャワ州南部は、11月末に訪れたプルバリンガ県なども含めて、ジャカルタ周辺からの繊維関連企業などの工場移転ブームに呼応しようとしている。いい意味での自治体間での投資誘致競争が起きているといってもよい。
ウォノギリ県の2014年最低賃金は月額95万4000ルピア、まだ1万円にも満たない。ウォノギリ県への企業移転に絡む話で日本人が県知事に会いに来たのは今回が初めてとのことである。
インドネシア、とくにジャワ島の地方は動いている。首都ジャカルタは、このダイナミズムを知らない。いや、もしかしたら、「知ろうとしない」のではないか。それは言い過ぎかもしれないが。
2014年4月1日火曜日
スラバヤを「桜」の街に
日本は今、東京を始め各地で桜が満開になっているようだが、インドネシア人の知人たちの間で、なんとスラバヤの「桜」が話題になっている。
雨季が始まる頃に咲く、スラバヤの「桜」。白、ピンク、黄色の花が咲く。花が咲き終わってから葉っぱが出てくるため、「桜」と同じだー、と言われているのである。
インドネシアの週刊誌『テンポ』の以下の写真ページを参照いただきたい。
Indahnya 'Bunga Sakura' di Surabaya
以下の日本語ウェブサイトでも、スラバヤの「桜」のことが取り上げられている。
【インドネシアで桜の木?】スラバヤに咲き誇る「桜」の美しさ
このスラバヤの「桜」、実は桜ではない。桜はバラ科サクラ亜科サクラ属で学名がPrunus, Cerasusであるのに対して、スラバヤの「桜」はタベブイアと呼ばれ、ノウゼンカズラ科タベブイア属の花を咲かせる樹木である。
スラバヤは緑の多い街である。よくみると、ただ単に緑が植えられているのではなく、花の咲く樹木が街路樹に植えられ、また、道路に面した公園や花壇には、様々な花が計算された配置に基づいて植えられていることが分かる。
そんな街路樹として、主要な通りに植えられているのが、このスラバヤの「桜」である。スラバヤ市のリスマ市長は「桜を愛でるなら、日本に行かずとも、スラバヤへ来ればいい」と言いながら、積極的にタベブイアを植えてきた。
本物の日本からの桜でないことを残念がる方もいるかもしれない。しかし、日本の桜の美しさをよく知っているからこそ、スラバヤにもそんな「桜」をたくさん咲かせてみたい、「桜」並木のある街にしたい、とリスマ市長は思ったのだろう。
スラバヤ市は、昔のゴミ最終処分場跡を公園化し、そこに「桜」を始めとして様々な花を植える計画を進めている。その計画に対して、国営BNI銀行が30億ルピア(約2700万円)を寄付すると申し出た。以下がその記事である。
BNI Kucurkan 3 Miliar untuk Taman Sakura Surabaya
リスマ市長は、スラバヤを「桜」の咲き誇る街にしたいのだ。街としての美観+潤いのある街にしたいのである。やはりこの市長は只者ではない。
世界中の市長を評価する『シティメイヤーズ』サイトは、リスマ市長を2014年2月の「メイヤー・オブ・ザ・マンス」に選んだ(英文記事はこちらから)。
今年も日本で花見ができなかった。でも、スラバヤが「桜」の咲き誇る街を目指すという話を聞いて、なんだかとっても嬉しくなった。
スラバヤ生活も4月1日から2年目に入った。この街がどんどん面白くなってきた。
スラバヤの街なかに咲く花の写真を少しずつ撮り始めた。「桜」はまだだが、花の話題にしては殺風景なので、花の写真をひとつ載せておく。
雨季が始まる頃に咲く、スラバヤの「桜」。白、ピンク、黄色の花が咲く。花が咲き終わってから葉っぱが出てくるため、「桜」と同じだー、と言われているのである。
インドネシアの週刊誌『テンポ』の以下の写真ページを参照いただきたい。
Indahnya 'Bunga Sakura' di Surabaya
以下の日本語ウェブサイトでも、スラバヤの「桜」のことが取り上げられている。
【インドネシアで桜の木?】スラバヤに咲き誇る「桜」の美しさ
このスラバヤの「桜」、実は桜ではない。桜はバラ科サクラ亜科サクラ属で学名がPrunus, Cerasusであるのに対して、スラバヤの「桜」はタベブイアと呼ばれ、ノウゼンカズラ科タベブイア属の花を咲かせる樹木である。
スラバヤは緑の多い街である。よくみると、ただ単に緑が植えられているのではなく、花の咲く樹木が街路樹に植えられ、また、道路に面した公園や花壇には、様々な花が計算された配置に基づいて植えられていることが分かる。
そんな街路樹として、主要な通りに植えられているのが、このスラバヤの「桜」である。スラバヤ市のリスマ市長は「桜を愛でるなら、日本に行かずとも、スラバヤへ来ればいい」と言いながら、積極的にタベブイアを植えてきた。
本物の日本からの桜でないことを残念がる方もいるかもしれない。しかし、日本の桜の美しさをよく知っているからこそ、スラバヤにもそんな「桜」をたくさん咲かせてみたい、「桜」並木のある街にしたい、とリスマ市長は思ったのだろう。
スラバヤ市は、昔のゴミ最終処分場跡を公園化し、そこに「桜」を始めとして様々な花を植える計画を進めている。その計画に対して、国営BNI銀行が30億ルピア(約2700万円)を寄付すると申し出た。以下がその記事である。
BNI Kucurkan 3 Miliar untuk Taman Sakura Surabaya
リスマ市長は、スラバヤを「桜」の咲き誇る街にしたいのだ。街としての美観+潤いのある街にしたいのである。やはりこの市長は只者ではない。
世界中の市長を評価する『シティメイヤーズ』サイトは、リスマ市長を2014年2月の「メイヤー・オブ・ザ・マンス」に選んだ(英文記事はこちらから)。
今年も日本で花見ができなかった。でも、スラバヤが「桜」の咲き誇る街を目指すという話を聞いて、なんだかとっても嬉しくなった。
スラバヤ生活も4月1日から2年目に入った。この街がどんどん面白くなってきた。
スラバヤの街なかに咲く花の写真を少しずつ撮り始めた。「桜」はまだだが、花の話題にしては殺風景なので、花の写真をひとつ載せておく。