今、母校の大学生によるスタディツアーのお供をしている。ジャカルタ、スラバヤ、マカッサル、西スラウェシ州ポレワリ、と移動する、学生にとってはけっこうハードかつ長期のツアーになった。
同行しながら、彼らがどんどん変わっていく姿を見るのが嬉しい。最初は日本から持ってきた常識や固定概念でインドネシアを見ていたのが、数日もすると、現場の視座を意識するようになってくる。現場を歩きながら、自分たちの持っていた先入観やイメージがことごとく覆っていく。その驚きを彼らの生の声で聞きながら、旅は続く。
感受性の強い彼らだからこそ、良いもの・悪いもの、好きなもの・嫌いなもの、様々なものを吸収していく。
私の役割は、彼らがただ単にそれを吸収するのではなく、現場から発信される様々な情報を、自分の頭で一生懸命に考え、それをつなげて自分なりの新たな考えを作る作業に適切なヒントや気づきを彼らへ促すことである。そう、静かに、ファシリテーションをしているのである。
私自身も、こうしたツアーに同行することで、新たなヒントや気づきを得ている。常に新しい刺激を求め、思考回路をリフレッシュさせながら、物事を批判的かつ建設的に見ていこうとすることで、自分が生きていることを実感するのである。
旅とはまた、学びである。自分の常識や思考を研ぎ澄ませるためには、新たなものを吸収し、学びを続けていく。自分にとって、それはいつどこでも行なっていきたいものなのだが、旅はまさにその刺激を得られる最たるものである。そして、それは自分だけのものではなく、旅で出会う様々な人々との交わりの中で、当人たちが意識するとしないとを問わず、新しい学びをあちこちに引き起こしているような気がする。
旅は出会いを引き起こす。旅は自分が動いていることでもある。動いていると、それに触発されて別の何かが絡まりながら新たに動き出す。そして、新しいつながりが生まれ、新しい何かが生まれてくる、と期待できる。
これでいいのだ。もう全部分かった。偉い人の言うとおりにすればよい。旅は、そんな言葉を打ち消す。変わらなければならないのは他人ではなく、自分なのだということを自覚できる。
自分たちの大事な世界を守るためには、「高い塀」や「ガードマン」に囲まれたその世界に閉じこもっているだけでは十分ではない。新しい世界を知り、そこと知り合うことで、自分たちを受け入れてくれる世界を広げていく。それが本当に広がって定着したときに、「高い塀」や「ガードマン」は何の意味も持たなくなる。
旅ができることに感謝し、自分の知らない世界を知り、新しい自分を作り続けるために、今日も旅を続けていく。
2014年8月25日月曜日
皆様へのご報告
インドネシアでのスポンサーであるJACビジネスセンターとの契約が9月3日で終了することになりました。これに伴い、「JACシニアアソシエイト」としての活動は9月3日までとなります。
皆様にはこれまで大変お世話になり、誠にありがとうございました。
なお、9月3日にいったんインドネシアを離れますが、9月9日に戻ってくる予定です。今後も、基本的に、スラバヤを中心としたインドネシアでの活動を当面、継続したいと思っています。
とくに、「在スラバヤJETRO中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーター」として、インドネシアでビジネスを行う日本の中小企業のサポート活動を来年3月まで努めます。
また、独立コンサルタント・ファシリテーター・カタリストとして、インドネシアおよび日本などでの講演、研修講師、コンサルティングなどの活動も、引き続き行なっていく予定です。ご希望の方は、直接、私宛にメール等でご連絡いただければ幸いです。
今回のJACビジネスセンターとの契約終了に伴い、「JACビジネスセンターのインドネシア情報ニュースレター」(無料版・有料版)の配信も本日号で終了とさせていただきました。長らくのご愛読をありがとうございました。
なお、ニュースレターの代わりに、インドネシアの最新情報と私のエッセイを中身とする有料メルマガの創刊を検討中です。詳細は別途、ブログ、フェイスブック、ツイッター、メール等でお知らせする予定ですので、もうしばらくお待ちいただければ幸いです。また、ご希望の方は個別にメール等でお知らせください。
以上、ご報告でした。
皆様にはこれまで大変お世話になり、誠にありがとうございました。
なお、9月3日にいったんインドネシアを離れますが、9月9日に戻ってくる予定です。今後も、基本的に、スラバヤを中心としたインドネシアでの活動を当面、継続したいと思っています。
とくに、「在スラバヤJETRO中小企業海外展開現地支援プラットフォーム・コーディネーター」として、インドネシアでビジネスを行う日本の中小企業のサポート活動を来年3月まで努めます。
また、独立コンサルタント・ファシリテーター・カタリストとして、インドネシアおよび日本などでの講演、研修講師、コンサルティングなどの活動も、引き続き行なっていく予定です。ご希望の方は、直接、私宛にメール等でご連絡いただければ幸いです。
今回のJACビジネスセンターとの契約終了に伴い、「JACビジネスセンターのインドネシア情報ニュースレター」(無料版・有料版)の配信も本日号で終了とさせていただきました。長らくのご愛読をありがとうございました。
なお、ニュースレターの代わりに、インドネシアの最新情報と私のエッセイを中身とする有料メルマガの創刊を検討中です。詳細は別途、ブログ、フェイスブック、ツイッター、メール等でお知らせする予定ですので、もうしばらくお待ちいただければ幸いです。また、ご希望の方は個別にメール等でお知らせください。
以上、ご報告でした。
2014年8月20日水曜日
アフリカ雑感
今回、タンザニア、ルワンダ、ウガンダを旅してきて思ったのは、まるでインドネシアの15〜20年前のような感じ、ということだった。
どの国も長期政権で、反政府勢力を力で押さえ込んでいる。その合い間に、経済を発展させ、国民を豊かにさせる。国民が成熟するのにつれ、近い将来に、大統領を公正な民主的な選挙で選ぶことをすでに想定しているようだった。
すでに、民主的な大統領選挙を3回実施したインドネシアは、そんな彼らよりもずいぶん先を歩いているようにも見えるが、今でも、ジャカルタの憲法裁判所前の騒ぎのように、嘘や陰謀で情報を操作し、力づくで民主的な結果を変えてしまおうという勢力がまだ存在する。
自分たちの主張が聞き届けられないとなると、直接の利害関係にない外国や特定の種族を敵視して、論点をずらしてまで自分たちの存在を多々鼓舞するような、非生産的なことを今だにやっている人々がいる。万が一、こうした勢力が権力を手にするようなことがあれば、インドネシアは一気に20年前へ戻っていってしまうだろう。民主化とは、普段の努力によって維持されるものであり、いったん間違えると、簡単に逆戻りしてしまう繊細なものでもある。
それは、種族の違いを無理やり強調し、自分たちを守るために相手を攻撃し、簡単に民主化への芽を摘み取ってきたこれら東アフリカ3国を見ているとよく分かる。その意味で、インドネシアは今のゴタゴタにきっちりケリをつけ、アフリカの国々に民主主義の定着を身をもって教えられる立場を確立しなければならない。
それはそうと、アフリカの旅でもう一つ印象的だったのは、アフリカの人々は意外にきちんとしている、ということだった。真面目といってもよい。ホテルの設備などで、基本的なアメニティや設備がしっかりしている。給仕の振る舞いもそつがなく、無駄にブラブラしているようなところがない。インドネシアでは、目に見えないからといって手を抜くことが頻繁にあるが、そういう素振りをあまり見かけなかった。
インドネシアからアフリカへ出かけて、そろそろ日本=インドネシア、日本=アフリカという形ではなく、インドネシア=アフリカという関係を促していける時代が来ているのではないかという予感がした。それは、ともすると日本に見られがちな上から目線ではなく、インドネシアとアフリカとが対等な立場で新しい何かを作り始めていく、という関係を構築できるのではないかと感じた。
実際、東アフリカ経済におけるインド系、パキスタン系、アラブ系商人の活躍は目を見張った。ルワンダのキガリで見た「エキスポ」には、パキスタン・コーナーやエジプト・コーナーが広く取ってあり、盛んに商売をしていた。中古車輸入・販売を手がけているのは、多くがパキスタン系で、おそらく彼らが日本からの中古車輸出をも手がけているのだろう。我々の知らないところで、彼らはすでに東アフリカ経済にとって不可欠な存在となっている。
第1回アジア・アフリカ会議は1955年、インドネシアのバンドンで開かれた。しかしそれ以降、インドネシアはアフリカからずっと遠い存在になってしまったような気がする。
インドネシアでアフリカの話になれば、ナイジェリア人が麻薬や覚醒剤を持ち込むといった話になるし、タクシーの運転手は、体臭がきついといってアフリカ人の乗客を毛嫌いする。あまりいいイメージで語られることはない。しかし、実際にインドネシアの人々がアフリカに行って人々と交われば、こうしたイメージは変わってくるだろう。
相手を知るということから相互理解と尊敬が生まれる。そして自分自身を深く知ることも重要である。忙しい、時間がないと言いながら、物事をインスタントに考えてしまう、知識が単なるレッテル貼りになってしまう、空気が支配しているとうそぶく世の中を、もう一度当たり前の普通の世の中へ戻していきたい。
あなたが私のことを知り、
あなたが本当にあなた自身のことを知っていたならば、
あなたは私を殺すことなどなかったはずなのに。
If you knew me
and you really knew yourself,
you would not have killed me.
キガリのジェノサイド記念館の壁に貼られたこの言葉を見ながら、人が人をもっとよりよく知り合える機会づくりをしたい、人と人をもっとつなげる人になりたい、そのために、自分自身を常に開いていきたい。そう、真に思った。
どの国も長期政権で、反政府勢力を力で押さえ込んでいる。その合い間に、経済を発展させ、国民を豊かにさせる。国民が成熟するのにつれ、近い将来に、大統領を公正な民主的な選挙で選ぶことをすでに想定しているようだった。
すでに、民主的な大統領選挙を3回実施したインドネシアは、そんな彼らよりもずいぶん先を歩いているようにも見えるが、今でも、ジャカルタの憲法裁判所前の騒ぎのように、嘘や陰謀で情報を操作し、力づくで民主的な結果を変えてしまおうという勢力がまだ存在する。
自分たちの主張が聞き届けられないとなると、直接の利害関係にない外国や特定の種族を敵視して、論点をずらしてまで自分たちの存在を多々鼓舞するような、非生産的なことを今だにやっている人々がいる。万が一、こうした勢力が権力を手にするようなことがあれば、インドネシアは一気に20年前へ戻っていってしまうだろう。民主化とは、普段の努力によって維持されるものであり、いったん間違えると、簡単に逆戻りしてしまう繊細なものでもある。
それは、種族の違いを無理やり強調し、自分たちを守るために相手を攻撃し、簡単に民主化への芽を摘み取ってきたこれら東アフリカ3国を見ているとよく分かる。その意味で、インドネシアは今のゴタゴタにきっちりケリをつけ、アフリカの国々に民主主義の定着を身をもって教えられる立場を確立しなければならない。
それはそうと、アフリカの旅でもう一つ印象的だったのは、アフリカの人々は意外にきちんとしている、ということだった。真面目といってもよい。ホテルの設備などで、基本的なアメニティや設備がしっかりしている。給仕の振る舞いもそつがなく、無駄にブラブラしているようなところがない。インドネシアでは、目に見えないからといって手を抜くことが頻繁にあるが、そういう素振りをあまり見かけなかった。
インドネシアからアフリカへ出かけて、そろそろ日本=インドネシア、日本=アフリカという形ではなく、インドネシア=アフリカという関係を促していける時代が来ているのではないかという予感がした。それは、ともすると日本に見られがちな上から目線ではなく、インドネシアとアフリカとが対等な立場で新しい何かを作り始めていく、という関係を構築できるのではないかと感じた。
実際、東アフリカ経済におけるインド系、パキスタン系、アラブ系商人の活躍は目を見張った。ルワンダのキガリで見た「エキスポ」には、パキスタン・コーナーやエジプト・コーナーが広く取ってあり、盛んに商売をしていた。中古車輸入・販売を手がけているのは、多くがパキスタン系で、おそらく彼らが日本からの中古車輸出をも手がけているのだろう。我々の知らないところで、彼らはすでに東アフリカ経済にとって不可欠な存在となっている。
第1回アジア・アフリカ会議は1955年、インドネシアのバンドンで開かれた。しかしそれ以降、インドネシアはアフリカからずっと遠い存在になってしまったような気がする。
インドネシアでアフリカの話になれば、ナイジェリア人が麻薬や覚醒剤を持ち込むといった話になるし、タクシーの運転手は、体臭がきついといってアフリカ人の乗客を毛嫌いする。あまりいいイメージで語られることはない。しかし、実際にインドネシアの人々がアフリカに行って人々と交われば、こうしたイメージは変わってくるだろう。
相手を知るということから相互理解と尊敬が生まれる。そして自分自身を深く知ることも重要である。忙しい、時間がないと言いながら、物事をインスタントに考えてしまう、知識が単なるレッテル貼りになってしまう、空気が支配しているとうそぶく世の中を、もう一度当たり前の普通の世の中へ戻していきたい。
あなたが私のことを知り、
あなたが本当にあなた自身のことを知っていたならば、
あなたは私を殺すことなどなかったはずなのに。
If you knew me
and you really knew yourself,
you would not have killed me.
キガリのジェノサイド記念館の壁に貼られたこの言葉を見ながら、人が人をもっとよりよく知り合える機会づくりをしたい、人と人をもっとつなげる人になりたい、そのために、自分自身を常に開いていきたい。そう、真に思った。
2014年8月16日土曜日
ウガンダでの1週間(3)サファリとナイル
ウガンダではしっかり観光もした。北部のグルからカンパラへ戻る前に、途中のマーチソン滝国立公園でボート・サファリとゲーム・ドライブをした。
サファリには「人間は野生動物よりも上だ」という臭いがして、偏見というかあまりいい印象を持っていなかったのだが、実際に行ってみると、これがなかなかの面白さだった。
宿泊した「ブアナ・テンボ・ロッジ」は国立公園の外だが、ここまで野生のゾウがやってくることがあるのだという。部屋には「ゾウがやってくることがありますが、そのときには部屋にこもって静かに彼らが居なくなるのを待ちましょう」という注意書きが置かれていた。ちなみにテンボとはスワヒリ語でゾウのことらしい。
ロッジは丘の上にあり、ナイル川を見下ろす眺望が美しい。
実際、ロッジから国立公園の入口へ向かう間に、いきなりゾウに出くわした。
8月5日は、船に乗ってナイル川をマーチソン滝まで上るボート・サファリに参加した。川岸に集まるバッファローなどの動物や水中にいるカバなどの動物、ホワイト・イーグルを始めとする様々な鳥を見ることができた。
一番奥のマーチソン滝の近くまで来て、折り返すコースである。
8月6日は、朝6時にロッジを出発して、ゲーム・ドライブ。陸上でのサファリである。まずは、サバンナに昇り始めた朝日を拝む。
ゾウの集団が木をなぎ倒したため、道が通れなくなっていた。やむをえず、草原の中を迂回する。
ウガンダの国獣であるウガンダ・コープという鹿の仲間やジャクソンなどが草原に無数にいる。
とても運よく、ライオンにも出会えた。すれ違うサファリの車が皆、「ライオンがどこにいたか」と私の運転手に尋ねてくる。雌ライオンは至近距離で見えたが、雄ライオンは離れた茂みのなかでじっとしていた。
キリンにも遭遇。
でも、圧巻は、前日に船で近くまで行ったマーチソン滝だった。6日は滝の上から見たのだが、その水量の迫力には度肝を抜かれた。
そして翌7日には、ジンジャへ行き、ビクトリア湖とナイル川源流の境目に立ってきた。
ナイル川源流には標識が立っているが、そこへ行くには、お土産物屋さんに寄らなければならないのだった。
ナイル川源流へボートで向かう際、30分で100米ドルとふっかけられた。ナイル川源流は目と鼻の先。1時間で15万シリング(約60米ドル)ぐらいが相場と聞いていたので、30分で10万シリング(約40米ドル)と値切った結果、30分11万シリングで行ってくれた。
しかし、船頭がとてもサービス熱心な人で、船の上で「あと4万シリング出してくれたら、養魚場などを2時間でまわってあげる」と言われたが、丁重に断り、結局、1時間半乗って、当初の11万シリング及び船頭へのチップとして2万シリングを払って終わらせた。
あとで聞いたら、10人ぐらいの団体でいくと、一人1万シリングぐらいで1時間なのだそうだ。
古い建物の残るジンジャの街も堪能できた。
サファリには「人間は野生動物よりも上だ」という臭いがして、偏見というかあまりいい印象を持っていなかったのだが、実際に行ってみると、これがなかなかの面白さだった。
宿泊した「ブアナ・テンボ・ロッジ」は国立公園の外だが、ここまで野生のゾウがやってくることがあるのだという。部屋には「ゾウがやってくることがありますが、そのときには部屋にこもって静かに彼らが居なくなるのを待ちましょう」という注意書きが置かれていた。ちなみにテンボとはスワヒリ語でゾウのことらしい。
ロッジは丘の上にあり、ナイル川を見下ろす眺望が美しい。
実際、ロッジから国立公園の入口へ向かう間に、いきなりゾウに出くわした。
8月5日は、船に乗ってナイル川をマーチソン滝まで上るボート・サファリに参加した。川岸に集まるバッファローなどの動物や水中にいるカバなどの動物、ホワイト・イーグルを始めとする様々な鳥を見ることができた。
一番奥のマーチソン滝の近くまで来て、折り返すコースである。
8月6日は、朝6時にロッジを出発して、ゲーム・ドライブ。陸上でのサファリである。まずは、サバンナに昇り始めた朝日を拝む。
ゾウの集団が木をなぎ倒したため、道が通れなくなっていた。やむをえず、草原の中を迂回する。
ウガンダの国獣であるウガンダ・コープという鹿の仲間やジャクソンなどが草原に無数にいる。
とても運よく、ライオンにも出会えた。すれ違うサファリの車が皆、「ライオンがどこにいたか」と私の運転手に尋ねてくる。雌ライオンは至近距離で見えたが、雄ライオンは離れた茂みのなかでじっとしていた。
キリンにも遭遇。
でも、圧巻は、前日に船で近くまで行ったマーチソン滝だった。6日は滝の上から見たのだが、その水量の迫力には度肝を抜かれた。
そして翌7日には、ジンジャへ行き、ビクトリア湖とナイル川源流の境目に立ってきた。
ナイル川源流には標識が立っているが、そこへ行くには、お土産物屋さんに寄らなければならないのだった。
ナイル川源流へボートで向かう際、30分で100米ドルとふっかけられた。ナイル川源流は目と鼻の先。1時間で15万シリング(約60米ドル)ぐらいが相場と聞いていたので、30分で10万シリング(約40米ドル)と値切った結果、30分11万シリングで行ってくれた。
しかし、船頭がとてもサービス熱心な人で、船の上で「あと4万シリング出してくれたら、養魚場などを2時間でまわってあげる」と言われたが、丁重に断り、結局、1時間半乗って、当初の11万シリング及び船頭へのチップとして2万シリングを払って終わらせた。
あとで聞いたら、10人ぐらいの団体でいくと、一人1万シリングぐらいで1時間なのだそうだ。
古い建物の残るジンジャの街も堪能できた。
ウガンダでの1週間(2)シアーナッツ・オイル
8月4日、KNさんが活動する北部のグルから車で約1時間半の村へ行き、シアーナッツ・オイルを作る農家Bさん宅を訪問した。
これがシアーナッツとそれが実る木である。
シアーナッツ・オイルづくりは、手間隙かかる作業である。まず、シアーナッツを集めて火にかけ、灰をかけて熱した後、それを土の上に落として冷ます。
冷ましたシアーナッツを網に入れ、篩(ふるい)のようにして灰や砂などを取り除く。
これらの作業のほとんどは、Bさんの奥さんが執り行う。Bさんは、ソルガムの「ビール」を飲みながらその様子を見守る。私も午前中からそれに付き合わされて飲んだ。
ようやくBさんの出番。シアーナッツを臼に入れ、棒で上下に叩きながら潰す。
潰してドロドロになったシアーナッツを容器に移し、それを石の上に出して殻などを丁寧に濾す。
濾したドロドロのシアーナッツ液を鍋に入れ、再び火にかける。そして、煮詰まって、油になってくる。
最後に、これを濾して、ペットボトルに詰めて完成である。
Bさん宅では、豪勢な昼食も振る舞われた。ご飯とスパゲッティ(ここではマカロニと呼んでいた)と一緒に食べる。そして、これらの料理に、シアーナッツ・オイルがたっぷりとかけられた。こってり感を満喫する。
昼食の後、シアーナッツ・オイルを1瓶5,000シリング(約200円)で買った。それをインドネシアまで持って帰ってきたが、何にどう使えばよいのか。誰か使用法をご存知の方がいれば、教えてほしい。
最後に、Bさんの家とその周辺を写真に撮ってくれと言われた。ルワンダでもそうだったが、1軒の家の中がいくつもの部屋に分かれているのではなく、夫婦の家、子供の家、などと小さな円形の家の形で分かれていた。周辺には、キャッサバ、バナナなどが植えられていた。
土の上には、小さなソーラーパネルが置かれていた。電気のないこの村で、携帯電話の充電に使っているのだった。
Bさんは、医師も看護師もいないこの村に病院を作りたいと話してくれた。「土地はいっぱいある。日本から誰か来て病院を作ってくれないか」という。
病院はないけれど、こんな小さな村にも酒の飲めるバーがある。酒を飲まない人が多数のインドネシアの村の風景からすると、ちょっと違和感があった。
これがシアーナッツとそれが実る木である。
シアーナッツ・オイルづくりは、手間隙かかる作業である。まず、シアーナッツを集めて火にかけ、灰をかけて熱した後、それを土の上に落として冷ます。
冷ましたシアーナッツを網に入れ、篩(ふるい)のようにして灰や砂などを取り除く。
これらの作業のほとんどは、Bさんの奥さんが執り行う。Bさんは、ソルガムの「ビール」を飲みながらその様子を見守る。私も午前中からそれに付き合わされて飲んだ。
ようやくBさんの出番。シアーナッツを臼に入れ、棒で上下に叩きながら潰す。
潰してドロドロになったシアーナッツを容器に移し、それを石の上に出して殻などを丁寧に濾す。
濾したドロドロのシアーナッツ液を鍋に入れ、再び火にかける。そして、煮詰まって、油になってくる。
最後に、これを濾して、ペットボトルに詰めて完成である。
Bさん宅では、豪勢な昼食も振る舞われた。ご飯とスパゲッティ(ここではマカロニと呼んでいた)と一緒に食べる。そして、これらの料理に、シアーナッツ・オイルがたっぷりとかけられた。こってり感を満喫する。
昼食の後、シアーナッツ・オイルを1瓶5,000シリング(約200円)で買った。それをインドネシアまで持って帰ってきたが、何にどう使えばよいのか。誰か使用法をご存知の方がいれば、教えてほしい。
最後に、Bさんの家とその周辺を写真に撮ってくれと言われた。ルワンダでもそうだったが、1軒の家の中がいくつもの部屋に分かれているのではなく、夫婦の家、子供の家、などと小さな円形の家の形で分かれていた。周辺には、キャッサバ、バナナなどが植えられていた。
土の上には、小さなソーラーパネルが置かれていた。電気のないこの村で、携帯電話の充電に使っているのだった。
Bさんは、医師も看護師もいないこの村に病院を作りたいと話してくれた。「土地はいっぱいある。日本から誰か来て病院を作ってくれないか」という。
病院はないけれど、こんな小さな村にも酒の飲めるバーがある。酒を飲まない人が多数のインドネシアの村の風景からすると、ちょっと違和感があった。
2014年8月12日火曜日
ウガンダでの1週間(1)
ウガンダには8月2〜9日の8日間滞在した。今回は、ウガンダ在住の友人KNさんとそのご家族に何から何までお世話になった。
まず、入国の際に、50米ドルを支払って到着時査証をとる。このときに、係官から「どうしてケニア、ウガンダ、ルワンダ3ヵ国共通ビザを取らなかったんだ?普通はそれを取ってくるもんだ」というので、「ケニアに寄らないし・・・」とか色々説明していたら、「ちょっと訊いてくる!」といって退席し、5分後にOKといって到着時査証をパスポートに貼り付けてくれた。
KNさんの運転手がエンテベ空港に迎えに来てくれ、カンパラのホテルまで送ってくれた。エンテベからカンパラまでは一本道で、ときには渋滞で2〜3時間もかかると聞いていたが、途中で渋滞したものの、運良く1時間ちょっとでホテルに到着した。
カンパラの宿はシャングリラ・ホテル。旧名は上海ホテルという。レセプションは階段を上がった外にある机一つ。「クレジットカードの読み取り機がちゃんと動くかなあ?」などという状態で、絶対に「なんちゃってシャングリラ」と信じていた。実は、本当にシャングリラ系列だと別の知人に教えてもらった。
このホテル、見た目以上に基本がしっかりできていて、シャワーの温度調節に難があるほかは、インターネット接続をはじめ、部屋の設備やアメニティにも手抜きがなく、ランドリーはタダという、なかなか居心地の良いホテルだった。
かつての職場の先輩アフリカ研究者の定宿だったそうであり、日本人客の利用も多いようで、たくさんの日本語の書籍が置いてあった。
朝食はお庭で。小さい傾斜のある庭だが、これがなかなか素敵な空間である。
ウガンダに来て感じたのは、人々の表情が豊かで、融通がきくゆるさだった。タンザニアやルワンダよりもずっと英語が通じるせいか、ホテルの従業員に冗談を言ったり微笑んだりすると、ちゃんと反応してくれる。ちょっと、インドネシアに似た感じだった。
融通がきくといえば、カンパラから車で4時間のグルという都市へ行ったときのこと。その日は8月3日(日)で、夕方6時頃、無線Wifiルーター用のSIMを探していた。ようやく見つけた店には鍵がかかっており、閉店の様子。でも、まだ中に職員がいる。
ダメもとでノックすると、何と職員がやってきて鍵を外し、「中に入れ」という。こうして、めでたくSIMをゲットできた。ある人は「きっとその日の唯一の売り上げだったかもよ」と言っていた。
ウガンダでは、幹線道路のいくつかのポイントに交通警察が張っていて、車を止めてはチェックする。とくに、シートベルト着用は厳しく見られる。筆者はそれに気づかず、シートベルトをしないで後部座席に座っていたのだが、交通警察が鬼の子を取ったようにニコニコしながら「はい、罰金でーす」と近寄ってきた。
「ウガンダに昨日来たばかりなんですー」と言い訳しても、「イイですかあ?この表にシートベルト未着用は2万シリング(約800円)と書いてありますねえ。払ってくださいねえ」と言い寄る。払ってあげたら、とても嬉しそうだった。ウガンダは汚職がひどいらしく、なかでも警察はその筆頭。インドネシアもそうだったなと思いだした。
タンザニアやルワンダと同様、ウガンダで道路を走る車はほぼ9割以上が日本車、しかも中古車である。トヨタが圧倒的に多い。ルワンダは左ハンドルだが、それでも日本車が多かった。日本を始めとして、世界中から日本車の中古車がここに集まってくる。10年程度のものは、ここでは新車扱いなのだという。
それらの中古車には、かつて使われていた会社や組織の名前がついたまま走っているものが少なくない。加えて、いったん消したものの、新たに怪しげな漢字を施した中古車もみかける。何と書いてあるのか、解読不能だが、おそらく、漢字らしきものがあると、高く売れるのかもしれない。
中古車がほぼすべてのこの国では、おそらく今後、自動車を作るということは起こらないだろう。これらの国が中古車を輸入してくれるから、日本などでは安心して車の買い替えが行えるのだと思った。そして今後は、タイやインドネシアなどからの中古車輸入へシフトしていくのではないか。
これらの国で日本からの中古車が使われた後、どうなるのかというと、ボディは鉄板として使われ、その他部品は売買される。ここが中古車の最終目的地のようである。
まず、入国の際に、50米ドルを支払って到着時査証をとる。このときに、係官から「どうしてケニア、ウガンダ、ルワンダ3ヵ国共通ビザを取らなかったんだ?普通はそれを取ってくるもんだ」というので、「ケニアに寄らないし・・・」とか色々説明していたら、「ちょっと訊いてくる!」といって退席し、5分後にOKといって到着時査証をパスポートに貼り付けてくれた。
KNさんの運転手がエンテベ空港に迎えに来てくれ、カンパラのホテルまで送ってくれた。エンテベからカンパラまでは一本道で、ときには渋滞で2〜3時間もかかると聞いていたが、途中で渋滞したものの、運良く1時間ちょっとでホテルに到着した。
カンパラの宿はシャングリラ・ホテル。旧名は上海ホテルという。レセプションは階段を上がった外にある机一つ。「クレジットカードの読み取り機がちゃんと動くかなあ?」などという状態で、絶対に「なんちゃってシャングリラ」と信じていた。実は、本当にシャングリラ系列だと別の知人に教えてもらった。
このホテル、見た目以上に基本がしっかりできていて、シャワーの温度調節に難があるほかは、インターネット接続をはじめ、部屋の設備やアメニティにも手抜きがなく、ランドリーはタダという、なかなか居心地の良いホテルだった。
かつての職場の先輩アフリカ研究者の定宿だったそうであり、日本人客の利用も多いようで、たくさんの日本語の書籍が置いてあった。
朝食はお庭で。小さい傾斜のある庭だが、これがなかなか素敵な空間である。
ウガンダに来て感じたのは、人々の表情が豊かで、融通がきくゆるさだった。タンザニアやルワンダよりもずっと英語が通じるせいか、ホテルの従業員に冗談を言ったり微笑んだりすると、ちゃんと反応してくれる。ちょっと、インドネシアに似た感じだった。
融通がきくといえば、カンパラから車で4時間のグルという都市へ行ったときのこと。その日は8月3日(日)で、夕方6時頃、無線Wifiルーター用のSIMを探していた。ようやく見つけた店には鍵がかかっており、閉店の様子。でも、まだ中に職員がいる。
ダメもとでノックすると、何と職員がやってきて鍵を外し、「中に入れ」という。こうして、めでたくSIMをゲットできた。ある人は「きっとその日の唯一の売り上げだったかもよ」と言っていた。
ウガンダでは、幹線道路のいくつかのポイントに交通警察が張っていて、車を止めてはチェックする。とくに、シートベルト着用は厳しく見られる。筆者はそれに気づかず、シートベルトをしないで後部座席に座っていたのだが、交通警察が鬼の子を取ったようにニコニコしながら「はい、罰金でーす」と近寄ってきた。
「ウガンダに昨日来たばかりなんですー」と言い訳しても、「イイですかあ?この表にシートベルト未着用は2万シリング(約800円)と書いてありますねえ。払ってくださいねえ」と言い寄る。払ってあげたら、とても嬉しそうだった。ウガンダは汚職がひどいらしく、なかでも警察はその筆頭。インドネシアもそうだったなと思いだした。
タンザニアやルワンダと同様、ウガンダで道路を走る車はほぼ9割以上が日本車、しかも中古車である。トヨタが圧倒的に多い。ルワンダは左ハンドルだが、それでも日本車が多かった。日本を始めとして、世界中から日本車の中古車がここに集まってくる。10年程度のものは、ここでは新車扱いなのだという。
それらの中古車には、かつて使われていた会社や組織の名前がついたまま走っているものが少なくない。加えて、いったん消したものの、新たに怪しげな漢字を施した中古車もみかける。何と書いてあるのか、解読不能だが、おそらく、漢字らしきものがあると、高く売れるのかもしれない。
中古車がほぼすべてのこの国では、おそらく今後、自動車を作るということは起こらないだろう。これらの国が中古車を輸入してくれるから、日本などでは安心して車の買い替えが行えるのだと思った。そして今後は、タイやインドネシアなどからの中古車輸入へシフトしていくのではないか。
これらの国で日本からの中古車が使われた後、どうなるのかというと、ボディは鉄板として使われ、その他部品は売買される。ここが中古車の最終目的地のようである。
2014年8月3日日曜日
ジェノサイド記念館を訪問
ルワンダへ来た主目的は、福島から移住した叔母に再会することだったが、それにも負けるとも劣らぬ目的は、ジェノサイド記念館を訪問することだった。
今年は、100万人近くが犠牲となったルワンダ虐殺から20年目である。7月31日、キガリのジェノサイド記念館を訪問した。
ジェノサイド記念館は、キガリ市の南部の丘の上にある。1階の展示場では、独立前のルワンダ社会の様子から説き起こし、植民地時代とキリスト教への改宗、独立前後の混乱、独立後、ジェノサイド、ジェノサイド後のルワンダ、といったクロノロジカルな展示のほか、犠牲者の写真が何枚も吊り下げられた部屋、遺品の部屋、白骨の部屋がある。
2階の展示場には、世界各地で起こったジェノサイドが取り上げられている。トルコでのアルメニア人虐殺、アンゴラでのヘレロス族虐殺、ドイツでのホロコースト、カンボジアでのポルポトによる虐殺、バルカン半島でのボスニア人・コソボ人の虐殺である。その隣には、ルワンダ虐殺で殺された子供たちの写真と夢などの書かれた掲示が続く。
展示によると、ルワンダはもともとイキニャルワンダという一つの言語をもった集団だった。インドネシアの経験でもそうだが、言語は統一国家を形成する要となるものである。多言語が普通のアフリカにあって、ルワンダは国家形成において稀有なプラス条件を持っていたと言えるかもしれない。
ドイツの後に支配したベルギーは1932年、住民登録証にフトゥ(Hutu)、トゥツィ(Tutsi)、トゥワ(Twa)の3つの種族別の記載を開始した。住民を分断し、同一言語で統一国家建設へ向かわせないための人為的な分別だったかもしれない。なぜなら、牛の保有頭数が10頭以上ならばトゥツィ、10頭以下ならばフトゥと見なしたというからである。
少数の富者(トゥツィ)が多数の貧者(フトゥ)を支配するという単純な構図。貧富格差に種族を絡め、種族間の対立を煽るというやり方である。同じ言語を使う者たちが無理矢理に引き裂かれ、対立し、殺し合うという状況を生み出してしまった。
独立前後で、多数のフトゥが少数のトゥツィを虐殺し「民族浄化」を実行してしまった。1959〜1973年に殺されたトゥツィの数は約70万人に上るとされる。そこから国外へ逃れたトゥツィは、後にルワンダ英雄戦線(RPF)を結成し、1990年10月にルワンダ領内へ侵攻した。
ルワンダ国内では、民族融和を掲げたクーデターが起こるが、そこでできた政権もまた、フトゥ青年防衛隊を組織し、それを利用して独裁政治を進めるが、青年防衛隊はフトゥ至上主義を掲げて暴走を始める。RPFのルワンダ侵攻もその傾向に輪をかけた。1990年12月には、「フトゥが守るべき10箇条」が公布され、トゥツィとの間でビジネス・友人・親族関係を持つ者は裏切り者とされた。
1994年3月のジェノサイド前に引き起こされたトゥツィ虐殺事件は、1990年10月、1991年1月、1991年2月、1992年3月、1992年8月、1993年1月、1993年3月、1994年2月にあった。
ジェノサイド記念館での説明は、基本的に、現政権を支配するトゥツィの立場から描かれたもので、フトゥを擁護する記述は見当たらない。おそらく、フトゥ側からは、全く異なる説明がなされるのだろう。実際、ルワンダ国外へ逃れたフトゥには、いまだに綿々と反トゥツィの意識が引き継がれ、事あれば反撃したいと思っている者も少なくないと聞く。今のルワンダのカガメ政権が強権的といわれる所以である。
ともかく、たとえトゥツィの側に立った説明であったとしても、ジェノサイド記念館の展示は見ておくべきものであろう。互いに殺戮し合ったということもさることながら、生き延びた人々の苦悩、とくに、加害者による暴力によって女性(50万人以上がレイプ被害、HIV/AIDSに侵され亡くなった人も数多い)や子どもの受けた精神的・肉体的な傷の影響は、20年で癒せるものではない。そして、ジェノサイド記念館の最後には、それを乗り越えていこうとする人々の姿が展示されていた。
ジェノサイド記念館の内部は撮影禁止なので、写真はない。
ジェノサイド記念館の外には、集団墓地があり、花が手向けられていた。
その先には、野外ホールが建設中だった。このジェノサイド記念館をアフリカから平和を発信するセンターとして拡張する計画があるようだ。
翌8月1日、キガリから車で4時間、ムランビというところにあるジェノサイド記念館を訪問した。丘の上の旧中学校の建物がその場所だった。
館内の展示物はキガリのジェノサイド記念館とほぼ同じだが、ここはまさに虐殺の場所そのものだった。
20年前、丘の上に建設中の中学校なら安全だと思って多数の人がここへ逃げてきた。しかし、行き当たりのこの場所は逆に最も危険な場所だった。虐殺者たちは人々を追いかけ、建物に辿り着く前に殺されたり、レイプされたりする者が多数だったという。
そして、この場所のもう一つの特徴は、この場所にいたフランス軍の存在である。虐殺が行われている間、フランス軍はその状態をただ黙視した、止めなかったというのである。
虐殺者たちは生き残った婦女子を国際機関事務所へ連行し、「誰も殺されていない」と証言させたという。そして、4ヵ所ある遺体の集団埋葬場所をブルドーザーで埋め、証拠隠滅を図った。フランス軍の兵士たちは、その上でバレーボールに興じていたとさえ言われている。
下の写真は、ブルドーザーで埋められた集団埋葬場所を掘り返したものである。
キガリのジェノサイド記念館の展示によると、ジェノサイドが起こる前、1993年8月の和平協定に反発したルワンダ政府が、フランスとの間で1200万ドルの軍需取引契約を締結した、という。現在のルワンダがなぜフランスに対して厳しい姿勢を示しているのかが理解できた。
ムランビのジェノサイド記念館の裏に並ぶ建物(下写真)には、集団埋葬場所から掘り出された多数の白骨遺体が展示されている。子どもを抱いた母親の遺体、乳幼児の遺体もある。これでもかこれでもかというほどの数である。ここがジェノサイドの現場そのものだったという現実が自分に突き刺さってくる。
案内役の青年によると、フランスからも観光客が来るというが、彼らに話をしてもなかなか信じてもらえないそうだ。彼らは、フランス軍が人命救助に奔走したはずと信じているからだ。
正直いって真相は分からない。歴史とは、常に勝者の歴史だからだ。もし今、ルアンダがフトゥ中心の政権だったら、全く異なる歴史が語られ、トゥツィ排斥の正当性が強調されていたことだろう。
2つのジェノサイド記念館を訪問した後、バスに乗ったり、町中を歩いたりしながら、ぞっとした。バスの隣の席の人が、あるいは町ですれ違った人が、ジェノサイドの加害者であったり被害者であったりするのか、と思ったからである。
ルワンダにはもう種族を区別する項目がIDカードから消えたという。新しいルワンダを創ろうという方向性を示すものであろう。
しかし、都市部を一歩離れれば、20年前に誰がどんなことをしたのかを皆がはっきりと覚えている。トラウマと憎しみの感情は簡単に消えることはない。昨日まで信頼していた親族や隣人が突然殺人者へ変貌した事実を決して忘れることはできないはずだ。
そんな、薄い薄い皮に覆われたルワンダ社会の危うさを感じないわけにはいかない。これを克服する方法はただ一つ、経済活動やビジネスなどによって人々を前へ向かせ、ルワンダ社会にかかる皮を着実に厚くしていくことしかない。
そしてまた、このジェノサイドがルワンダに特殊のものではない、状況によっては、インドネシアでも日本でも起こりうる可能性があることを強く感じた。もちろん、そうならないための努力を日頃からしていかなければならないことは、言うまでもない。
今年は、100万人近くが犠牲となったルワンダ虐殺から20年目である。7月31日、キガリのジェノサイド記念館を訪問した。
ジェノサイド記念館は、キガリ市の南部の丘の上にある。1階の展示場では、独立前のルワンダ社会の様子から説き起こし、植民地時代とキリスト教への改宗、独立前後の混乱、独立後、ジェノサイド、ジェノサイド後のルワンダ、といったクロノロジカルな展示のほか、犠牲者の写真が何枚も吊り下げられた部屋、遺品の部屋、白骨の部屋がある。
2階の展示場には、世界各地で起こったジェノサイドが取り上げられている。トルコでのアルメニア人虐殺、アンゴラでのヘレロス族虐殺、ドイツでのホロコースト、カンボジアでのポルポトによる虐殺、バルカン半島でのボスニア人・コソボ人の虐殺である。その隣には、ルワンダ虐殺で殺された子供たちの写真と夢などの書かれた掲示が続く。
展示によると、ルワンダはもともとイキニャルワンダという一つの言語をもった集団だった。インドネシアの経験でもそうだが、言語は統一国家を形成する要となるものである。多言語が普通のアフリカにあって、ルワンダは国家形成において稀有なプラス条件を持っていたと言えるかもしれない。
ドイツの後に支配したベルギーは1932年、住民登録証にフトゥ(Hutu)、トゥツィ(Tutsi)、トゥワ(Twa)の3つの種族別の記載を開始した。住民を分断し、同一言語で統一国家建設へ向かわせないための人為的な分別だったかもしれない。なぜなら、牛の保有頭数が10頭以上ならばトゥツィ、10頭以下ならばフトゥと見なしたというからである。
少数の富者(トゥツィ)が多数の貧者(フトゥ)を支配するという単純な構図。貧富格差に種族を絡め、種族間の対立を煽るというやり方である。同じ言語を使う者たちが無理矢理に引き裂かれ、対立し、殺し合うという状況を生み出してしまった。
独立前後で、多数のフトゥが少数のトゥツィを虐殺し「民族浄化」を実行してしまった。1959〜1973年に殺されたトゥツィの数は約70万人に上るとされる。そこから国外へ逃れたトゥツィは、後にルワンダ英雄戦線(RPF)を結成し、1990年10月にルワンダ領内へ侵攻した。
ルワンダ国内では、民族融和を掲げたクーデターが起こるが、そこでできた政権もまた、フトゥ青年防衛隊を組織し、それを利用して独裁政治を進めるが、青年防衛隊はフトゥ至上主義を掲げて暴走を始める。RPFのルワンダ侵攻もその傾向に輪をかけた。1990年12月には、「フトゥが守るべき10箇条」が公布され、トゥツィとの間でビジネス・友人・親族関係を持つ者は裏切り者とされた。
1994年3月のジェノサイド前に引き起こされたトゥツィ虐殺事件は、1990年10月、1991年1月、1991年2月、1992年3月、1992年8月、1993年1月、1993年3月、1994年2月にあった。
ジェノサイド記念館での説明は、基本的に、現政権を支配するトゥツィの立場から描かれたもので、フトゥを擁護する記述は見当たらない。おそらく、フトゥ側からは、全く異なる説明がなされるのだろう。実際、ルワンダ国外へ逃れたフトゥには、いまだに綿々と反トゥツィの意識が引き継がれ、事あれば反撃したいと思っている者も少なくないと聞く。今のルワンダのカガメ政権が強権的といわれる所以である。
ともかく、たとえトゥツィの側に立った説明であったとしても、ジェノサイド記念館の展示は見ておくべきものであろう。互いに殺戮し合ったということもさることながら、生き延びた人々の苦悩、とくに、加害者による暴力によって女性(50万人以上がレイプ被害、HIV/AIDSに侵され亡くなった人も数多い)や子どもの受けた精神的・肉体的な傷の影響は、20年で癒せるものではない。そして、ジェノサイド記念館の最後には、それを乗り越えていこうとする人々の姿が展示されていた。
ジェノサイド記念館の内部は撮影禁止なので、写真はない。
ジェノサイド記念館の外には、集団墓地があり、花が手向けられていた。
その先には、野外ホールが建設中だった。このジェノサイド記念館をアフリカから平和を発信するセンターとして拡張する計画があるようだ。
翌8月1日、キガリから車で4時間、ムランビというところにあるジェノサイド記念館を訪問した。丘の上の旧中学校の建物がその場所だった。
館内の展示物はキガリのジェノサイド記念館とほぼ同じだが、ここはまさに虐殺の場所そのものだった。
20年前、丘の上に建設中の中学校なら安全だと思って多数の人がここへ逃げてきた。しかし、行き当たりのこの場所は逆に最も危険な場所だった。虐殺者たちは人々を追いかけ、建物に辿り着く前に殺されたり、レイプされたりする者が多数だったという。
そして、この場所のもう一つの特徴は、この場所にいたフランス軍の存在である。虐殺が行われている間、フランス軍はその状態をただ黙視した、止めなかったというのである。
虐殺者たちは生き残った婦女子を国際機関事務所へ連行し、「誰も殺されていない」と証言させたという。そして、4ヵ所ある遺体の集団埋葬場所をブルドーザーで埋め、証拠隠滅を図った。フランス軍の兵士たちは、その上でバレーボールに興じていたとさえ言われている。
下の写真は、ブルドーザーで埋められた集団埋葬場所を掘り返したものである。
キガリのジェノサイド記念館の展示によると、ジェノサイドが起こる前、1993年8月の和平協定に反発したルワンダ政府が、フランスとの間で1200万ドルの軍需取引契約を締結した、という。現在のルワンダがなぜフランスに対して厳しい姿勢を示しているのかが理解できた。
ムランビのジェノサイド記念館の裏に並ぶ建物(下写真)には、集団埋葬場所から掘り出された多数の白骨遺体が展示されている。子どもを抱いた母親の遺体、乳幼児の遺体もある。これでもかこれでもかというほどの数である。ここがジェノサイドの現場そのものだったという現実が自分に突き刺さってくる。
案内役の青年によると、フランスからも観光客が来るというが、彼らに話をしてもなかなか信じてもらえないそうだ。彼らは、フランス軍が人命救助に奔走したはずと信じているからだ。
正直いって真相は分からない。歴史とは、常に勝者の歴史だからだ。もし今、ルアンダがフトゥ中心の政権だったら、全く異なる歴史が語られ、トゥツィ排斥の正当性が強調されていたことだろう。
2つのジェノサイド記念館を訪問した後、バスに乗ったり、町中を歩いたりしながら、ぞっとした。バスの隣の席の人が、あるいは町ですれ違った人が、ジェノサイドの加害者であったり被害者であったりするのか、と思ったからである。
ルワンダにはもう種族を区別する項目がIDカードから消えたという。新しいルワンダを創ろうという方向性を示すものであろう。
しかし、都市部を一歩離れれば、20年前に誰がどんなことをしたのかを皆がはっきりと覚えている。トラウマと憎しみの感情は簡単に消えることはない。昨日まで信頼していた親族や隣人が突然殺人者へ変貌した事実を決して忘れることはできないはずだ。
そんな、薄い薄い皮に覆われたルワンダ社会の危うさを感じないわけにはいかない。これを克服する方法はただ一つ、経済活動やビジネスなどによって人々を前へ向かせ、ルワンダ社会にかかる皮を着実に厚くしていくことしかない。
そしてまた、このジェノサイドがルワンダに特殊のものではない、状況によっては、インドネシアでも日本でも起こりうる可能性があることを強く感じた。もちろん、そうならないための努力を日頃からしていかなければならないことは、言うまでもない。
2014年8月1日金曜日
ルワンダの首都キガリに到着
7月29日夜、ダルエスサラーム発のルアンダ航空直行便で、ルワンダの首都キガリに到着した。
キガリの空港は改修中だが、持参のiPhoneが4G-LTEの無線LANインターネットをいきなりつかんだ。タンザニアでは考えられなかったぐらい速い。インターネット環境はタンザニアより上か、と思ったが、ゲストハウスの無線LANは相当に遅かった。
今回のルワンダ訪問、いや、東アフリカ3ヵ国訪問のメインの目的は、ルワンダへ移住した叔母に再会することだった。叔母は今、キガリのウムチョムウィーザ学園という名の学校で子どもたちに音楽を教えている。この学校は、日本からの支援で建てられた私立の幼稚園・小学校で、福島市に本部のあるルワンダの教育を考える会が日本側の窓口となっている。
30日、さっそく叔母の働くウムチョムウィーザ学園を訪問した。学校の建物には、青年海外協力隊の方々が子どもたちと一緒に描いた、思わず楽しくなるような壁画が描かれていた。ルワンダの学校でこんな壁画のある学校はほかにないそうだ。
先生方は本当に子ども好きの様子で、いい方々だった。子どもが本来もっている創造性や自主性を育もうという姿勢がうかがえ、学力向上より前にまず人間性を重視していた。
ところで、いくつもの丘の上に作られたキガリの町には、平坦な場所がない。尾根道を幹線道路が環状に走り、人々の生活空間はその環状線から下へ降りていったところに広がっている。環状線はきちんと舗装された片側2車線の道路で、そこから降りていく道には石畳の道があり、さらに行くと、舗装されていない、乾季には土埃が舞うであろうデコボコ道がけっこうな急勾配で続く。
今回宿泊しているゲストハウスは、叔母の家の近くなのだが、環状線から石畳の道を降り、さらに未舗装のデコボコ道の果てにある。環状線からは約1.7キロの道のりで、ゲストハウスから環状線まで歩いて坂を登っていくのはけっこうしんどい。
先に述べたウムチョムウィーザ学園もまた、環状線から続く幹線道路から約1キロほど下ったところにある。
公共交通機関の乗合バスは、環状線およびそれに続く幹線道路を通るので、バスを下車した後、ゲストハウスやウムチョムウィーザ学園へ行くには、徒歩またはバイクタクシーを利用することになる。
叔母は毎日、自宅から環状線まで歩き、バスに乗って、下車した後、徒歩でウムチョムウィーザ学園へ通勤している。往復で毎日5キロ以上歩く計算になる。毎朝ストレッチしているというが、76歳という年齢でそれを悠々とこなしているのには恐れ入る。インドネシア人的な感覚からすると、都市でそれだけ歩くというのは普通はないだろう(交通機関のないインドネシアの田舎の人々は実はけっこう歩いているのだが)。
叔母と一緒に乗合バスにも乗った。車掌に行先を告げても、適当な返事をされることもあるので、何度も聞いてしまう。バスは日本のマイクロバスで、補助席も使うので通路はなく、着席式である。停留所のみで乗り降りする。料金は200フラン(約14円)、定員を満たすと発車する。
キガリの中心街であるムムジでバスを降り、道路を渡ろうとしたとき、たとえ横断歩道でないところを渡っても、ほとんどの車が停まってくれるのにはびっくりした。自動車の台数がまだ少ないというのも理由としてはあるだろうが、ジャカルタやスラバヤでは、車が停まることはまずない。運転も穏やかで、交通マナーはキガリのほうが良さそうに見える。
一般に、ルワンダの人々は生真面目できちんとしている、出しゃばらない、おとなしい、という評判である。タンザニアに滞在した際にも、「ルワンダ人はタンザニア人とはずいぶん違うよ」という話を聞いていた。その一方で、他に同調する傾向が強く、指示待ち的な人が多いとも聞いた。
愛すべき真面目なルワンダの人々。叔母はそんな彼らが大好きな様子である。しかし、そんな人々が、いやそんな人々だからこそなのか、ジェノサイドという、残虐な忌まわしい過去を作り出してしまったルワンダの人々の心の中を、どうしても思わずにはいられないのである。
キガリの空港は改修中だが、持参のiPhoneが4G-LTEの無線LANインターネットをいきなりつかんだ。タンザニアでは考えられなかったぐらい速い。インターネット環境はタンザニアより上か、と思ったが、ゲストハウスの無線LANは相当に遅かった。
今回のルワンダ訪問、いや、東アフリカ3ヵ国訪問のメインの目的は、ルワンダへ移住した叔母に再会することだった。叔母は今、キガリのウムチョムウィーザ学園という名の学校で子どもたちに音楽を教えている。この学校は、日本からの支援で建てられた私立の幼稚園・小学校で、福島市に本部のあるルワンダの教育を考える会が日本側の窓口となっている。
30日、さっそく叔母の働くウムチョムウィーザ学園を訪問した。学校の建物には、青年海外協力隊の方々が子どもたちと一緒に描いた、思わず楽しくなるような壁画が描かれていた。ルワンダの学校でこんな壁画のある学校はほかにないそうだ。
先生方は本当に子ども好きの様子で、いい方々だった。子どもが本来もっている創造性や自主性を育もうという姿勢がうかがえ、学力向上より前にまず人間性を重視していた。
ところで、いくつもの丘の上に作られたキガリの町には、平坦な場所がない。尾根道を幹線道路が環状に走り、人々の生活空間はその環状線から下へ降りていったところに広がっている。環状線はきちんと舗装された片側2車線の道路で、そこから降りていく道には石畳の道があり、さらに行くと、舗装されていない、乾季には土埃が舞うであろうデコボコ道がけっこうな急勾配で続く。
今回宿泊しているゲストハウスは、叔母の家の近くなのだが、環状線から石畳の道を降り、さらに未舗装のデコボコ道の果てにある。環状線からは約1.7キロの道のりで、ゲストハウスから環状線まで歩いて坂を登っていくのはけっこうしんどい。
先に述べたウムチョムウィーザ学園もまた、環状線から続く幹線道路から約1キロほど下ったところにある。
公共交通機関の乗合バスは、環状線およびそれに続く幹線道路を通るので、バスを下車した後、ゲストハウスやウムチョムウィーザ学園へ行くには、徒歩またはバイクタクシーを利用することになる。
叔母と一緒に乗合バスにも乗った。車掌に行先を告げても、適当な返事をされることもあるので、何度も聞いてしまう。バスは日本のマイクロバスで、補助席も使うので通路はなく、着席式である。停留所のみで乗り降りする。料金は200フラン(約14円)、定員を満たすと発車する。
キガリの中心街であるムムジでバスを降り、道路を渡ろうとしたとき、たとえ横断歩道でないところを渡っても、ほとんどの車が停まってくれるのにはびっくりした。自動車の台数がまだ少ないというのも理由としてはあるだろうが、ジャカルタやスラバヤでは、車が停まることはまずない。運転も穏やかで、交通マナーはキガリのほうが良さそうに見える。
一般に、ルワンダの人々は生真面目できちんとしている、出しゃばらない、おとなしい、という評判である。タンザニアに滞在した際にも、「ルワンダ人はタンザニア人とはずいぶん違うよ」という話を聞いていた。その一方で、他に同調する傾向が強く、指示待ち的な人が多いとも聞いた。
愛すべき真面目なルワンダの人々。叔母はそんな彼らが大好きな様子である。しかし、そんな人々が、いやそんな人々だからこそなのか、ジェノサイドという、残虐な忌まわしい過去を作り出してしまったルワンダの人々の心の中を、どうしても思わずにはいられないのである。