ウガンダには8月2〜9日の8日間滞在した。今回は、ウガンダ在住の友人KNさんとそのご家族に何から何までお世話になった。
まず、入国の際に、50米ドルを支払って到着時査証をとる。このときに、係官から「どうしてケニア、ウガンダ、ルワンダ3ヵ国共通ビザを取らなかったんだ?普通はそれを取ってくるもんだ」というので、「ケニアに寄らないし・・・」とか色々説明していたら、「ちょっと訊いてくる!」といって退席し、5分後にOKといって到着時査証をパスポートに貼り付けてくれた。
KNさんの運転手がエンテベ空港に迎えに来てくれ、カンパラのホテルまで送ってくれた。エンテベからカンパラまでは一本道で、ときには渋滞で2〜3時間もかかると聞いていたが、途中で渋滞したものの、運良く1時間ちょっとでホテルに到着した。
カンパラの宿はシャングリラ・ホテル。旧名は上海ホテルという。レセプションは階段を上がった外にある机一つ。「クレジットカードの読み取り機がちゃんと動くかなあ?」などという状態で、絶対に「なんちゃってシャングリラ」と信じていた。実は、本当にシャングリラ系列だと別の知人に教えてもらった。
このホテル、見た目以上に基本がしっかりできていて、シャワーの温度調節に難があるほかは、インターネット接続をはじめ、部屋の設備やアメニティにも手抜きがなく、ランドリーはタダという、なかなか居心地の良いホテルだった。
かつての職場の先輩アフリカ研究者の定宿だったそうであり、日本人客の利用も多いようで、たくさんの日本語の書籍が置いてあった。
朝食はお庭で。小さい傾斜のある庭だが、これがなかなか素敵な空間である。
ウガンダに来て感じたのは、人々の表情が豊かで、融通がきくゆるさだった。タンザニアやルワンダよりもずっと英語が通じるせいか、ホテルの従業員に冗談を言ったり微笑んだりすると、ちゃんと反応してくれる。ちょっと、インドネシアに似た感じだった。
融通がきくといえば、カンパラから車で4時間のグルという都市へ行ったときのこと。その日は8月3日(日)で、夕方6時頃、無線Wifiルーター用のSIMを探していた。ようやく見つけた店には鍵がかかっており、閉店の様子。でも、まだ中に職員がいる。
ダメもとでノックすると、何と職員がやってきて鍵を外し、「中に入れ」という。こうして、めでたくSIMをゲットできた。ある人は「きっとその日の唯一の売り上げだったかもよ」と言っていた。
ウガンダでは、幹線道路のいくつかのポイントに交通警察が張っていて、車を止めてはチェックする。とくに、シートベルト着用は厳しく見られる。筆者はそれに気づかず、シートベルトをしないで後部座席に座っていたのだが、交通警察が鬼の子を取ったようにニコニコしながら「はい、罰金でーす」と近寄ってきた。
「ウガンダに昨日来たばかりなんですー」と言い訳しても、「イイですかあ?この表にシートベルト未着用は2万シリング(約800円)と書いてありますねえ。払ってくださいねえ」と言い寄る。払ってあげたら、とても嬉しそうだった。ウガンダは汚職がひどいらしく、なかでも警察はその筆頭。インドネシアもそうだったなと思いだした。
タンザニアやルワンダと同様、ウガンダで道路を走る車はほぼ9割以上が日本車、しかも中古車である。トヨタが圧倒的に多い。ルワンダは左ハンドルだが、それでも日本車が多かった。日本を始めとして、世界中から日本車の中古車がここに集まってくる。10年程度のものは、ここでは新車扱いなのだという。
それらの中古車には、かつて使われていた会社や組織の名前がついたまま走っているものが少なくない。加えて、いったん消したものの、新たに怪しげな漢字を施した中古車もみかける。何と書いてあるのか、解読不能だが、おそらく、漢字らしきものがあると、高く売れるのかもしれない。
中古車がほぼすべてのこの国では、おそらく今後、自動車を作るということは起こらないだろう。これらの国が中古車を輸入してくれるから、日本などでは安心して車の買い替えが行えるのだと思った。そして今後は、タイやインドネシアなどからの中古車輸入へシフトしていくのではないか。
これらの国で日本からの中古車が使われた後、どうなるのかというと、ボディは鉄板として使われ、その他部品は売買される。ここが中古車の最終目的地のようである。
2014年8月12日火曜日
2014年8月3日日曜日
ジェノサイド記念館を訪問
ルワンダへ来た主目的は、福島から移住した叔母に再会することだったが、それにも負けるとも劣らぬ目的は、ジェノサイド記念館を訪問することだった。
今年は、100万人近くが犠牲となったルワンダ虐殺から20年目である。7月31日、キガリのジェノサイド記念館を訪問した。
ジェノサイド記念館は、キガリ市の南部の丘の上にある。1階の展示場では、独立前のルワンダ社会の様子から説き起こし、植民地時代とキリスト教への改宗、独立前後の混乱、独立後、ジェノサイド、ジェノサイド後のルワンダ、といったクロノロジカルな展示のほか、犠牲者の写真が何枚も吊り下げられた部屋、遺品の部屋、白骨の部屋がある。
2階の展示場には、世界各地で起こったジェノサイドが取り上げられている。トルコでのアルメニア人虐殺、アンゴラでのヘレロス族虐殺、ドイツでのホロコースト、カンボジアでのポルポトによる虐殺、バルカン半島でのボスニア人・コソボ人の虐殺である。その隣には、ルワンダ虐殺で殺された子供たちの写真と夢などの書かれた掲示が続く。
展示によると、ルワンダはもともとイキニャルワンダという一つの言語をもった集団だった。インドネシアの経験でもそうだが、言語は統一国家を形成する要となるものである。多言語が普通のアフリカにあって、ルワンダは国家形成において稀有なプラス条件を持っていたと言えるかもしれない。
ドイツの後に支配したベルギーは1932年、住民登録証にフトゥ(Hutu)、トゥツィ(Tutsi)、トゥワ(Twa)の3つの種族別の記載を開始した。住民を分断し、同一言語で統一国家建設へ向かわせないための人為的な分別だったかもしれない。なぜなら、牛の保有頭数が10頭以上ならばトゥツィ、10頭以下ならばフトゥと見なしたというからである。
少数の富者(トゥツィ)が多数の貧者(フトゥ)を支配するという単純な構図。貧富格差に種族を絡め、種族間の対立を煽るというやり方である。同じ言語を使う者たちが無理矢理に引き裂かれ、対立し、殺し合うという状況を生み出してしまった。
独立前後で、多数のフトゥが少数のトゥツィを虐殺し「民族浄化」を実行してしまった。1959〜1973年に殺されたトゥツィの数は約70万人に上るとされる。そこから国外へ逃れたトゥツィは、後にルワンダ英雄戦線(RPF)を結成し、1990年10月にルワンダ領内へ侵攻した。
ルワンダ国内では、民族融和を掲げたクーデターが起こるが、そこでできた政権もまた、フトゥ青年防衛隊を組織し、それを利用して独裁政治を進めるが、青年防衛隊はフトゥ至上主義を掲げて暴走を始める。RPFのルワンダ侵攻もその傾向に輪をかけた。1990年12月には、「フトゥが守るべき10箇条」が公布され、トゥツィとの間でビジネス・友人・親族関係を持つ者は裏切り者とされた。
1994年3月のジェノサイド前に引き起こされたトゥツィ虐殺事件は、1990年10月、1991年1月、1991年2月、1992年3月、1992年8月、1993年1月、1993年3月、1994年2月にあった。
ジェノサイド記念館での説明は、基本的に、現政権を支配するトゥツィの立場から描かれたもので、フトゥを擁護する記述は見当たらない。おそらく、フトゥ側からは、全く異なる説明がなされるのだろう。実際、ルワンダ国外へ逃れたフトゥには、いまだに綿々と反トゥツィの意識が引き継がれ、事あれば反撃したいと思っている者も少なくないと聞く。今のルワンダのカガメ政権が強権的といわれる所以である。
ともかく、たとえトゥツィの側に立った説明であったとしても、ジェノサイド記念館の展示は見ておくべきものであろう。互いに殺戮し合ったということもさることながら、生き延びた人々の苦悩、とくに、加害者による暴力によって女性(50万人以上がレイプ被害、HIV/AIDSに侵され亡くなった人も数多い)や子どもの受けた精神的・肉体的な傷の影響は、20年で癒せるものではない。そして、ジェノサイド記念館の最後には、それを乗り越えていこうとする人々の姿が展示されていた。
ジェノサイド記念館の内部は撮影禁止なので、写真はない。
ジェノサイド記念館の外には、集団墓地があり、花が手向けられていた。
その先には、野外ホールが建設中だった。このジェノサイド記念館をアフリカから平和を発信するセンターとして拡張する計画があるようだ。
翌8月1日、キガリから車で4時間、ムランビというところにあるジェノサイド記念館を訪問した。丘の上の旧中学校の建物がその場所だった。
館内の展示物はキガリのジェノサイド記念館とほぼ同じだが、ここはまさに虐殺の場所そのものだった。
20年前、丘の上に建設中の中学校なら安全だと思って多数の人がここへ逃げてきた。しかし、行き当たりのこの場所は逆に最も危険な場所だった。虐殺者たちは人々を追いかけ、建物に辿り着く前に殺されたり、レイプされたりする者が多数だったという。
そして、この場所のもう一つの特徴は、この場所にいたフランス軍の存在である。虐殺が行われている間、フランス軍はその状態をただ黙視した、止めなかったというのである。
虐殺者たちは生き残った婦女子を国際機関事務所へ連行し、「誰も殺されていない」と証言させたという。そして、4ヵ所ある遺体の集団埋葬場所をブルドーザーで埋め、証拠隠滅を図った。フランス軍の兵士たちは、その上でバレーボールに興じていたとさえ言われている。
下の写真は、ブルドーザーで埋められた集団埋葬場所を掘り返したものである。
キガリのジェノサイド記念館の展示によると、ジェノサイドが起こる前、1993年8月の和平協定に反発したルワンダ政府が、フランスとの間で1200万ドルの軍需取引契約を締結した、という。現在のルワンダがなぜフランスに対して厳しい姿勢を示しているのかが理解できた。
ムランビのジェノサイド記念館の裏に並ぶ建物(下写真)には、集団埋葬場所から掘り出された多数の白骨遺体が展示されている。子どもを抱いた母親の遺体、乳幼児の遺体もある。これでもかこれでもかというほどの数である。ここがジェノサイドの現場そのものだったという現実が自分に突き刺さってくる。
案内役の青年によると、フランスからも観光客が来るというが、彼らに話をしてもなかなか信じてもらえないそうだ。彼らは、フランス軍が人命救助に奔走したはずと信じているからだ。
正直いって真相は分からない。歴史とは、常に勝者の歴史だからだ。もし今、ルアンダがフトゥ中心の政権だったら、全く異なる歴史が語られ、トゥツィ排斥の正当性が強調されていたことだろう。
2つのジェノサイド記念館を訪問した後、バスに乗ったり、町中を歩いたりしながら、ぞっとした。バスの隣の席の人が、あるいは町ですれ違った人が、ジェノサイドの加害者であったり被害者であったりするのか、と思ったからである。
ルワンダにはもう種族を区別する項目がIDカードから消えたという。新しいルワンダを創ろうという方向性を示すものであろう。
しかし、都市部を一歩離れれば、20年前に誰がどんなことをしたのかを皆がはっきりと覚えている。トラウマと憎しみの感情は簡単に消えることはない。昨日まで信頼していた親族や隣人が突然殺人者へ変貌した事実を決して忘れることはできないはずだ。
そんな、薄い薄い皮に覆われたルワンダ社会の危うさを感じないわけにはいかない。これを克服する方法はただ一つ、経済活動やビジネスなどによって人々を前へ向かせ、ルワンダ社会にかかる皮を着実に厚くしていくことしかない。
そしてまた、このジェノサイドがルワンダに特殊のものではない、状況によっては、インドネシアでも日本でも起こりうる可能性があることを強く感じた。もちろん、そうならないための努力を日頃からしていかなければならないことは、言うまでもない。
今年は、100万人近くが犠牲となったルワンダ虐殺から20年目である。7月31日、キガリのジェノサイド記念館を訪問した。
ジェノサイド記念館は、キガリ市の南部の丘の上にある。1階の展示場では、独立前のルワンダ社会の様子から説き起こし、植民地時代とキリスト教への改宗、独立前後の混乱、独立後、ジェノサイド、ジェノサイド後のルワンダ、といったクロノロジカルな展示のほか、犠牲者の写真が何枚も吊り下げられた部屋、遺品の部屋、白骨の部屋がある。
2階の展示場には、世界各地で起こったジェノサイドが取り上げられている。トルコでのアルメニア人虐殺、アンゴラでのヘレロス族虐殺、ドイツでのホロコースト、カンボジアでのポルポトによる虐殺、バルカン半島でのボスニア人・コソボ人の虐殺である。その隣には、ルワンダ虐殺で殺された子供たちの写真と夢などの書かれた掲示が続く。
展示によると、ルワンダはもともとイキニャルワンダという一つの言語をもった集団だった。インドネシアの経験でもそうだが、言語は統一国家を形成する要となるものである。多言語が普通のアフリカにあって、ルワンダは国家形成において稀有なプラス条件を持っていたと言えるかもしれない。
ドイツの後に支配したベルギーは1932年、住民登録証にフトゥ(Hutu)、トゥツィ(Tutsi)、トゥワ(Twa)の3つの種族別の記載を開始した。住民を分断し、同一言語で統一国家建設へ向かわせないための人為的な分別だったかもしれない。なぜなら、牛の保有頭数が10頭以上ならばトゥツィ、10頭以下ならばフトゥと見なしたというからである。
少数の富者(トゥツィ)が多数の貧者(フトゥ)を支配するという単純な構図。貧富格差に種族を絡め、種族間の対立を煽るというやり方である。同じ言語を使う者たちが無理矢理に引き裂かれ、対立し、殺し合うという状況を生み出してしまった。
独立前後で、多数のフトゥが少数のトゥツィを虐殺し「民族浄化」を実行してしまった。1959〜1973年に殺されたトゥツィの数は約70万人に上るとされる。そこから国外へ逃れたトゥツィは、後にルワンダ英雄戦線(RPF)を結成し、1990年10月にルワンダ領内へ侵攻した。
ルワンダ国内では、民族融和を掲げたクーデターが起こるが、そこでできた政権もまた、フトゥ青年防衛隊を組織し、それを利用して独裁政治を進めるが、青年防衛隊はフトゥ至上主義を掲げて暴走を始める。RPFのルワンダ侵攻もその傾向に輪をかけた。1990年12月には、「フトゥが守るべき10箇条」が公布され、トゥツィとの間でビジネス・友人・親族関係を持つ者は裏切り者とされた。
1994年3月のジェノサイド前に引き起こされたトゥツィ虐殺事件は、1990年10月、1991年1月、1991年2月、1992年3月、1992年8月、1993年1月、1993年3月、1994年2月にあった。
ジェノサイド記念館での説明は、基本的に、現政権を支配するトゥツィの立場から描かれたもので、フトゥを擁護する記述は見当たらない。おそらく、フトゥ側からは、全く異なる説明がなされるのだろう。実際、ルワンダ国外へ逃れたフトゥには、いまだに綿々と反トゥツィの意識が引き継がれ、事あれば反撃したいと思っている者も少なくないと聞く。今のルワンダのカガメ政権が強権的といわれる所以である。
ともかく、たとえトゥツィの側に立った説明であったとしても、ジェノサイド記念館の展示は見ておくべきものであろう。互いに殺戮し合ったということもさることながら、生き延びた人々の苦悩、とくに、加害者による暴力によって女性(50万人以上がレイプ被害、HIV/AIDSに侵され亡くなった人も数多い)や子どもの受けた精神的・肉体的な傷の影響は、20年で癒せるものではない。そして、ジェノサイド記念館の最後には、それを乗り越えていこうとする人々の姿が展示されていた。
ジェノサイド記念館の内部は撮影禁止なので、写真はない。
ジェノサイド記念館の外には、集団墓地があり、花が手向けられていた。
その先には、野外ホールが建設中だった。このジェノサイド記念館をアフリカから平和を発信するセンターとして拡張する計画があるようだ。
翌8月1日、キガリから車で4時間、ムランビというところにあるジェノサイド記念館を訪問した。丘の上の旧中学校の建物がその場所だった。
館内の展示物はキガリのジェノサイド記念館とほぼ同じだが、ここはまさに虐殺の場所そのものだった。
20年前、丘の上に建設中の中学校なら安全だと思って多数の人がここへ逃げてきた。しかし、行き当たりのこの場所は逆に最も危険な場所だった。虐殺者たちは人々を追いかけ、建物に辿り着く前に殺されたり、レイプされたりする者が多数だったという。
そして、この場所のもう一つの特徴は、この場所にいたフランス軍の存在である。虐殺が行われている間、フランス軍はその状態をただ黙視した、止めなかったというのである。
虐殺者たちは生き残った婦女子を国際機関事務所へ連行し、「誰も殺されていない」と証言させたという。そして、4ヵ所ある遺体の集団埋葬場所をブルドーザーで埋め、証拠隠滅を図った。フランス軍の兵士たちは、その上でバレーボールに興じていたとさえ言われている。
下の写真は、ブルドーザーで埋められた集団埋葬場所を掘り返したものである。
キガリのジェノサイド記念館の展示によると、ジェノサイドが起こる前、1993年8月の和平協定に反発したルワンダ政府が、フランスとの間で1200万ドルの軍需取引契約を締結した、という。現在のルワンダがなぜフランスに対して厳しい姿勢を示しているのかが理解できた。
ムランビのジェノサイド記念館の裏に並ぶ建物(下写真)には、集団埋葬場所から掘り出された多数の白骨遺体が展示されている。子どもを抱いた母親の遺体、乳幼児の遺体もある。これでもかこれでもかというほどの数である。ここがジェノサイドの現場そのものだったという現実が自分に突き刺さってくる。
案内役の青年によると、フランスからも観光客が来るというが、彼らに話をしてもなかなか信じてもらえないそうだ。彼らは、フランス軍が人命救助に奔走したはずと信じているからだ。
正直いって真相は分からない。歴史とは、常に勝者の歴史だからだ。もし今、ルアンダがフトゥ中心の政権だったら、全く異なる歴史が語られ、トゥツィ排斥の正当性が強調されていたことだろう。
2つのジェノサイド記念館を訪問した後、バスに乗ったり、町中を歩いたりしながら、ぞっとした。バスの隣の席の人が、あるいは町ですれ違った人が、ジェノサイドの加害者であったり被害者であったりするのか、と思ったからである。
ルワンダにはもう種族を区別する項目がIDカードから消えたという。新しいルワンダを創ろうという方向性を示すものであろう。
しかし、都市部を一歩離れれば、20年前に誰がどんなことをしたのかを皆がはっきりと覚えている。トラウマと憎しみの感情は簡単に消えることはない。昨日まで信頼していた親族や隣人が突然殺人者へ変貌した事実を決して忘れることはできないはずだ。
そんな、薄い薄い皮に覆われたルワンダ社会の危うさを感じないわけにはいかない。これを克服する方法はただ一つ、経済活動やビジネスなどによって人々を前へ向かせ、ルワンダ社会にかかる皮を着実に厚くしていくことしかない。
そしてまた、このジェノサイドがルワンダに特殊のものではない、状況によっては、インドネシアでも日本でも起こりうる可能性があることを強く感じた。もちろん、そうならないための努力を日頃からしていかなければならないことは、言うまでもない。
2014年8月1日金曜日
ルワンダの首都キガリに到着
7月29日夜、ダルエスサラーム発のルアンダ航空直行便で、ルワンダの首都キガリに到着した。
キガリの空港は改修中だが、持参のiPhoneが4G-LTEの無線LANインターネットをいきなりつかんだ。タンザニアでは考えられなかったぐらい速い。インターネット環境はタンザニアより上か、と思ったが、ゲストハウスの無線LANは相当に遅かった。
今回のルワンダ訪問、いや、東アフリカ3ヵ国訪問のメインの目的は、ルワンダへ移住した叔母に再会することだった。叔母は今、キガリのウムチョムウィーザ学園という名の学校で子どもたちに音楽を教えている。この学校は、日本からの支援で建てられた私立の幼稚園・小学校で、福島市に本部のあるルワンダの教育を考える会が日本側の窓口となっている。
30日、さっそく叔母の働くウムチョムウィーザ学園を訪問した。学校の建物には、青年海外協力隊の方々が子どもたちと一緒に描いた、思わず楽しくなるような壁画が描かれていた。ルワンダの学校でこんな壁画のある学校はほかにないそうだ。
先生方は本当に子ども好きの様子で、いい方々だった。子どもが本来もっている創造性や自主性を育もうという姿勢がうかがえ、学力向上より前にまず人間性を重視していた。
ところで、いくつもの丘の上に作られたキガリの町には、平坦な場所がない。尾根道を幹線道路が環状に走り、人々の生活空間はその環状線から下へ降りていったところに広がっている。環状線はきちんと舗装された片側2車線の道路で、そこから降りていく道には石畳の道があり、さらに行くと、舗装されていない、乾季には土埃が舞うであろうデコボコ道がけっこうな急勾配で続く。
今回宿泊しているゲストハウスは、叔母の家の近くなのだが、環状線から石畳の道を降り、さらに未舗装のデコボコ道の果てにある。環状線からは約1.7キロの道のりで、ゲストハウスから環状線まで歩いて坂を登っていくのはけっこうしんどい。
先に述べたウムチョムウィーザ学園もまた、環状線から続く幹線道路から約1キロほど下ったところにある。
公共交通機関の乗合バスは、環状線およびそれに続く幹線道路を通るので、バスを下車した後、ゲストハウスやウムチョムウィーザ学園へ行くには、徒歩またはバイクタクシーを利用することになる。
叔母は毎日、自宅から環状線まで歩き、バスに乗って、下車した後、徒歩でウムチョムウィーザ学園へ通勤している。往復で毎日5キロ以上歩く計算になる。毎朝ストレッチしているというが、76歳という年齢でそれを悠々とこなしているのには恐れ入る。インドネシア人的な感覚からすると、都市でそれだけ歩くというのは普通はないだろう(交通機関のないインドネシアの田舎の人々は実はけっこう歩いているのだが)。
叔母と一緒に乗合バスにも乗った。車掌に行先を告げても、適当な返事をされることもあるので、何度も聞いてしまう。バスは日本のマイクロバスで、補助席も使うので通路はなく、着席式である。停留所のみで乗り降りする。料金は200フラン(約14円)、定員を満たすと発車する。
キガリの中心街であるムムジでバスを降り、道路を渡ろうとしたとき、たとえ横断歩道でないところを渡っても、ほとんどの車が停まってくれるのにはびっくりした。自動車の台数がまだ少ないというのも理由としてはあるだろうが、ジャカルタやスラバヤでは、車が停まることはまずない。運転も穏やかで、交通マナーはキガリのほうが良さそうに見える。
一般に、ルワンダの人々は生真面目できちんとしている、出しゃばらない、おとなしい、という評判である。タンザニアに滞在した際にも、「ルワンダ人はタンザニア人とはずいぶん違うよ」という話を聞いていた。その一方で、他に同調する傾向が強く、指示待ち的な人が多いとも聞いた。
愛すべき真面目なルワンダの人々。叔母はそんな彼らが大好きな様子である。しかし、そんな人々が、いやそんな人々だからこそなのか、ジェノサイドという、残虐な忌まわしい過去を作り出してしまったルワンダの人々の心の中を、どうしても思わずにはいられないのである。
キガリの空港は改修中だが、持参のiPhoneが4G-LTEの無線LANインターネットをいきなりつかんだ。タンザニアでは考えられなかったぐらい速い。インターネット環境はタンザニアより上か、と思ったが、ゲストハウスの無線LANは相当に遅かった。
今回のルワンダ訪問、いや、東アフリカ3ヵ国訪問のメインの目的は、ルワンダへ移住した叔母に再会することだった。叔母は今、キガリのウムチョムウィーザ学園という名の学校で子どもたちに音楽を教えている。この学校は、日本からの支援で建てられた私立の幼稚園・小学校で、福島市に本部のあるルワンダの教育を考える会が日本側の窓口となっている。
30日、さっそく叔母の働くウムチョムウィーザ学園を訪問した。学校の建物には、青年海外協力隊の方々が子どもたちと一緒に描いた、思わず楽しくなるような壁画が描かれていた。ルワンダの学校でこんな壁画のある学校はほかにないそうだ。
先生方は本当に子ども好きの様子で、いい方々だった。子どもが本来もっている創造性や自主性を育もうという姿勢がうかがえ、学力向上より前にまず人間性を重視していた。
ところで、いくつもの丘の上に作られたキガリの町には、平坦な場所がない。尾根道を幹線道路が環状に走り、人々の生活空間はその環状線から下へ降りていったところに広がっている。環状線はきちんと舗装された片側2車線の道路で、そこから降りていく道には石畳の道があり、さらに行くと、舗装されていない、乾季には土埃が舞うであろうデコボコ道がけっこうな急勾配で続く。
今回宿泊しているゲストハウスは、叔母の家の近くなのだが、環状線から石畳の道を降り、さらに未舗装のデコボコ道の果てにある。環状線からは約1.7キロの道のりで、ゲストハウスから環状線まで歩いて坂を登っていくのはけっこうしんどい。
先に述べたウムチョムウィーザ学園もまた、環状線から続く幹線道路から約1キロほど下ったところにある。
公共交通機関の乗合バスは、環状線およびそれに続く幹線道路を通るので、バスを下車した後、ゲストハウスやウムチョムウィーザ学園へ行くには、徒歩またはバイクタクシーを利用することになる。
叔母と一緒に乗合バスにも乗った。車掌に行先を告げても、適当な返事をされることもあるので、何度も聞いてしまう。バスは日本のマイクロバスで、補助席も使うので通路はなく、着席式である。停留所のみで乗り降りする。料金は200フラン(約14円)、定員を満たすと発車する。
キガリの中心街であるムムジでバスを降り、道路を渡ろうとしたとき、たとえ横断歩道でないところを渡っても、ほとんどの車が停まってくれるのにはびっくりした。自動車の台数がまだ少ないというのも理由としてはあるだろうが、ジャカルタやスラバヤでは、車が停まることはまずない。運転も穏やかで、交通マナーはキガリのほうが良さそうに見える。
一般に、ルワンダの人々は生真面目できちんとしている、出しゃばらない、おとなしい、という評判である。タンザニアに滞在した際にも、「ルワンダ人はタンザニア人とはずいぶん違うよ」という話を聞いていた。その一方で、他に同調する傾向が強く、指示待ち的な人が多いとも聞いた。
愛すべき真面目なルワンダの人々。叔母はそんな彼らが大好きな様子である。しかし、そんな人々が、いやそんな人々だからこそなのか、ジェノサイドという、残虐な忌まわしい過去を作り出してしまったルワンダの人々の心の中を、どうしても思わずにはいられないのである。
2014年7月31日木曜日
ラマダン最終日のザンジバル(3)
ザンジバルの世界遺産であるストーン・タウンの街歩きの後は、車で30分ほどの距離にある観光スパイス農園へ行った。
ザンジバルに富を築かせたのは、奴隷貿易、象牙取引と並んでスパイス貿易であった。なかでも、丁字は、もともとオランダ領東インド(現在のインドネシア)から移植され、世界有数の品質の丁字を産するに至った。実際、インドネシアは、ザンジバルから丁字タバコ(クレテック)用の丁字を輸入していた(今も輸入しているかもしれないが)。
観光スパイス農園につくと、若い兄ちゃんが農園の中を案内してくれる。農園自体は観光用に様々な香辛料の木を植えているのみで、商業用としては大したことはない。案内役の彼は農園とは何の関係もなく、観光客を案内するために農園を使わせてもらう観光ガイドである。
農園内を歩きながら、香辛料の木の実を詰んで、匂いをかがせたり、かじらせたりする。予想通り、彼が案内する香辛料はすべてインドネシアではおなじみのものばかり。いつもと勝手が違って、驚いたり感心したりしない客だったせいか、案内役の兄ちゃんはちょっとがっかりしている様子だった。
椰子ジュースを飲んでいる間に、葉っぱで帽子とネクタイを作ってくれた。最後に、スパイス販売コーナーに連れて行かれて、スパイス農園ツアーは終了である。
日頃、本物の香辛料の木を見る機会のない人々にとっては、興味深いツアーになるかもしれないが、今回は私のような客に当ってしまい、彼らにはちょっとかわいそうだった。
ザンジバルからダルエスサラームへの戻りは、セスナ機の最終便。
乗客が多く、増便が出たが、なぜか増便のほうが早く飛んでいってしまい、元々の便を予約していた私を含む乗客はしばらく取り残された。
結局、1時間近く遅れてダルエスサラームに到着。我々が先に飛べたら、セスナ機から夕日が楽しめたのに、とちょっと残念なザンジバル日帰りツアーの締めくくりだった。
ザンジバルに富を築かせたのは、奴隷貿易、象牙取引と並んでスパイス貿易であった。なかでも、丁字は、もともとオランダ領東インド(現在のインドネシア)から移植され、世界有数の品質の丁字を産するに至った。実際、インドネシアは、ザンジバルから丁字タバコ(クレテック)用の丁字を輸入していた(今も輸入しているかもしれないが)。
観光スパイス農園につくと、若い兄ちゃんが農園の中を案内してくれる。農園自体は観光用に様々な香辛料の木を植えているのみで、商業用としては大したことはない。案内役の彼は農園とは何の関係もなく、観光客を案内するために農園を使わせてもらう観光ガイドである。
農園内を歩きながら、香辛料の木の実を詰んで、匂いをかがせたり、かじらせたりする。予想通り、彼が案内する香辛料はすべてインドネシアではおなじみのものばかり。いつもと勝手が違って、驚いたり感心したりしない客だったせいか、案内役の兄ちゃんはちょっとがっかりしている様子だった。
まだ若い実の丁字をかじってみた。これはただの印象だが、インドネシアのものよりも味が濃いような気がした。ほかにも、シナモン、ショウガ、レモングラスなどをかじったが、いずれも、ザンジバルのほうが味が濃いと思った。これは土壌の違いによるものなのか。
スパイスとは関係のない話だが、付いて来たもう一人の若者が椰子の木に登り始めた。見ると、両足を縄で縛っている。これでスルスルと椰子の木に登り、小ぶりのヤシの実をひとつ取って降りてきて、割って飲ませてくれた。これも味が濃かった。
椰子ジュースを飲んでいる間に、葉っぱで帽子とネクタイを作ってくれた。最後に、スパイス販売コーナーに連れて行かれて、スパイス農園ツアーは終了である。
日頃、本物の香辛料の木を見る機会のない人々にとっては、興味深いツアーになるかもしれないが、今回は私のような客に当ってしまい、彼らにはちょっとかわいそうだった。
ザンジバルからダルエスサラームへの戻りは、セスナ機の最終便。
乗客が多く、増便が出たが、なぜか増便のほうが早く飛んでいってしまい、元々の便を予約していた私を含む乗客はしばらく取り残された。
結局、1時間近く遅れてダルエスサラームに到着。我々が先に飛べたら、セスナ機から夕日が楽しめたのに、とちょっと残念なザンジバル日帰りツアーの締めくくりだった。
ラマダン最終日のザンジバル(2)
ザンジバルといえば、ストーン・タウンの街歩きである。ここの建物は石灰岩やサンゴ石を使い、セメントやコンクリートを一切使っていない。ストーン・タウンの由来である。
細い小路がくねくねと曲がり、ガイドのムゼーさんがいなかったら本当に迷ってしまうことだったろう。その細い小路にバルコニーがせり出していたり、店のしゃれた看板が目立ちすぎずに掲げられていたり、何とも言えない興味深い空間を作り出している。
世界遺産に指定され、町並み保存活動も活発に行われている様子だが、近年、古い家を売って、それを改修してホテルやレストランにするケースが多くなったそうである。たしかに、古い町並みにマッチしたいわゆるブティック・ホテルが迷路のあちこちに建っている。オシャレな小ホテルがいろいろあって楽しい。
海沿いのテンボ・ホテルへ行った。テンボとは象の意味。ザンジバルには象はいないが、かつて象牙取引の一大拠点だった。このホテルは昔、象牙取引会社で、下の写真の向かって左側がその建物である。その後、右側を増築して、ホテルとして生まれ変わった。
テンボ・ホテルの天井には、白壁にマングローブが渡されている。
建物以外に目立つのは、装飾を施された家の玄関ドアである。かなり古いものも改修してまだ使われている。先の尖った突起がたくさん付けられているのも特徴である。
「マーキュリーの家」というのもあった。何かの商館かと思って行ってみると、有名なロックグループ「クイーン」のリードボーカルであるフレディ・マーキュリーの生家だった。彼はザンジバルの出身なのだ。
ストーン・タウンのなかには、日本ゆかりの場所もある。いわゆる「からゆきさん」はザンジバルまで来ていたが、彼女らが居たバーとされる建物が残っている。今は、いくつかの普通の商店が営まれている。
ストーン・タウンのなかでも、市場に近いところでは、レバラン前の最後の買い物をする人々がたくさん集まっていた。
布地を売っている商人がいた。ザンジバルにはキコイという地場のシンプルな布があるが、ここでのオリジナルは白地に線の入ったものだという。
ここで、ザンジバルのバティックを見つけた。デザインは単純で素朴であり、デザイン自体に深い意味はないそうだが、色合いがインドネシアのものとは異なっていて興味深い。
ストーン・タウンの街歩きの最後は、海岸沿いの建物へ。楽しみにしていた旧アラブ要塞(Old Arab Fort)と驚嘆の家(House of Wonder)は改修工事中で、中へ入ることができなかった。
これら二つの建物と海との間には、きれいに整備されたフォロダニ公園がある。
スルタン・ハウスは、スルタンの個人的なコレクションを集めたミニ博物館になっているが、ここの2階から海を眺めていると、風が心地よく、時間が経つのを忘れてしまいそうになる。
細い小路がくねくねと曲がり、ガイドのムゼーさんがいなかったら本当に迷ってしまうことだったろう。その細い小路にバルコニーがせり出していたり、店のしゃれた看板が目立ちすぎずに掲げられていたり、何とも言えない興味深い空間を作り出している。
世界遺産に指定され、町並み保存活動も活発に行われている様子だが、近年、古い家を売って、それを改修してホテルやレストランにするケースが多くなったそうである。たしかに、古い町並みにマッチしたいわゆるブティック・ホテルが迷路のあちこちに建っている。オシャレな小ホテルがいろいろあって楽しい。
海沿いのテンボ・ホテルへ行った。テンボとは象の意味。ザンジバルには象はいないが、かつて象牙取引の一大拠点だった。このホテルは昔、象牙取引会社で、下の写真の向かって左側がその建物である。その後、右側を増築して、ホテルとして生まれ変わった。
テンボ・ホテルの天井には、白壁にマングローブが渡されている。
建物以外に目立つのは、装飾を施された家の玄関ドアである。かなり古いものも改修してまだ使われている。先の尖った突起がたくさん付けられているのも特徴である。
「マーキュリーの家」というのもあった。何かの商館かと思って行ってみると、有名なロックグループ「クイーン」のリードボーカルであるフレディ・マーキュリーの生家だった。彼はザンジバルの出身なのだ。
ストーン・タウンのなかには、日本ゆかりの場所もある。いわゆる「からゆきさん」はザンジバルまで来ていたが、彼女らが居たバーとされる建物が残っている。今は、いくつかの普通の商店が営まれている。
ストーン・タウンのなかでも、市場に近いところでは、レバラン前の最後の買い物をする人々がたくさん集まっていた。
布地を売っている商人がいた。ザンジバルにはキコイという地場のシンプルな布があるが、ここでのオリジナルは白地に線の入ったものだという。
ここで、ザンジバルのバティックを見つけた。デザインは単純で素朴であり、デザイン自体に深い意味はないそうだが、色合いがインドネシアのものとは異なっていて興味深い。
ストーン・タウンの街歩きの最後は、海岸沿いの建物へ。楽しみにしていた旧アラブ要塞(Old Arab Fort)と驚嘆の家(House of Wonder)は改修工事中で、中へ入ることができなかった。
これら二つの建物と海との間には、きれいに整備されたフォロダニ公園がある。
スルタン・ハウスは、スルタンの個人的なコレクションを集めたミニ博物館になっているが、ここの2階から海を眺めていると、風が心地よく、時間が経つのを忘れてしまいそうになる。
2014年7月29日火曜日
ラマダン最終日のザンジバル(1)
7月27日午後、タンザニアのダルエスサラームに無事到着。翌28日は、朝7時に港から高速船に乗って、ザンジバルへ向かった。日帰りツアーである。
インドネシアは7月28日に断食明け大祭を祝ったが、タンザニアは予定よりも1日遅れの7月29日となった。断食明けのザンジバルからインドネシアのムスリムの友人たちに「おめでとう」のメッセージを送ろうと思っていたのだが、ちょっと残念。
行きの高速艇は、エージェントの配慮でVIP席となったが、中はインド系の若者たちの団体でほぼ「占拠」されていた。若干の波はあったが、大揺れすることもなく、1時間半ほどでザンジバル港に到着した。
到着すると「入境審査」がある。ザンジバルはかつて、タンザニアと統合するまで、わずかな期間だが独立国だった。タンザニアと統合後も、連邦制のなかで独自性を貫き、入境審査を継続しており、しっかり入境スタンプをパスポートに押された。たしか、マレーシアもサバやサラワクへ行くときにも、入境審査があったが、旧イギリス植民地で連邦制の国はみんなそうなのだろうか。
入境審査口では、中国人と思われる3人が順番を無視して窓口に詰め寄り、中国語でギャアギャアまくしたてている。入境係員は英語で説明するのだが、彼らは全然意味がわからない様子で、相変わらずまくしたてている。それを尻目に、別の係員にパスポートと入境申請書を提出。「仕事で来たんじゃないだろうな?」と何回かしつこく尋ねられた後、無事に入境。運転手兼任ガイドのムゼーさんと合流。
ムゼーさんの案内で、まずは市場から。風格のある建物の中の市場は、魚の競り市場があり、その向こう側に魚の小売の市場があり、と分かれていた。その後は、野菜・果物の市場。インドネシアでもお馴染みのものが多いが、いくつか見かけないものもあった。
市場をひと通り見た後は、奴隷市場跡とそこに建てられた聖堂を見に行く。ザンジバルはかつて、奴隷貿易で栄えたところでもある。アフリカ大陸から奴隷商人の手によって奴隷たちがザンジバルに集められ、収監されたのが奴隷市場である。地下の狭い空間に何十人もの奴隷たちが男部屋、女子供部屋に分けられて収監され、数日間拘置された後、生き残った者がオマーンなどのアラブ商人のもとへ売られていく。
こうした奴隷たちを解放したのがイギリスから来た宣教師で、彼は、奴隷市場の跡地に聖堂を建てた。奴隷たちは皆、自分たちを助けてくれたキリスト教の洗礼を受けた。
奴隷の子孫だと名乗るガイドがついて来てそんなふうに説明してくれる。まあ、実際はおそらくそんな単純なものではないにせよ、こんなけっこう扇動的な説明をしてしまうのだなと思った。
同時に、ムスリム人口9割のザンジバルでは、たとえ憂さ晴らしのような小競り合いはあったとしても、宗教を理由とした暴動や騒動は現実には起こりにくいのではないかと思った。しかし、それは、奴隷たちの子孫による憎しみが消えることを必ずしも意味しないだろう。
迷路のようなストーンタウンの街歩きはとても面白かった。インターネット接続の状況がよくないので、今回はここまでとし、後は次回へ。
インドネシアは7月28日に断食明け大祭を祝ったが、タンザニアは予定よりも1日遅れの7月29日となった。断食明けのザンジバルからインドネシアのムスリムの友人たちに「おめでとう」のメッセージを送ろうと思っていたのだが、ちょっと残念。
行きの高速艇は、エージェントの配慮でVIP席となったが、中はインド系の若者たちの団体でほぼ「占拠」されていた。若干の波はあったが、大揺れすることもなく、1時間半ほどでザンジバル港に到着した。
到着すると「入境審査」がある。ザンジバルはかつて、タンザニアと統合するまで、わずかな期間だが独立国だった。タンザニアと統合後も、連邦制のなかで独自性を貫き、入境審査を継続しており、しっかり入境スタンプをパスポートに押された。たしか、マレーシアもサバやサラワクへ行くときにも、入境審査があったが、旧イギリス植民地で連邦制の国はみんなそうなのだろうか。
入境審査口では、中国人と思われる3人が順番を無視して窓口に詰め寄り、中国語でギャアギャアまくしたてている。入境係員は英語で説明するのだが、彼らは全然意味がわからない様子で、相変わらずまくしたてている。それを尻目に、別の係員にパスポートと入境申請書を提出。「仕事で来たんじゃないだろうな?」と何回かしつこく尋ねられた後、無事に入境。運転手兼任ガイドのムゼーさんと合流。
ムゼーさんの案内で、まずは市場から。風格のある建物の中の市場は、魚の競り市場があり、その向こう側に魚の小売の市場があり、と分かれていた。その後は、野菜・果物の市場。インドネシアでもお馴染みのものが多いが、いくつか見かけないものもあった。
市場をひと通り見た後は、奴隷市場跡とそこに建てられた聖堂を見に行く。ザンジバルはかつて、奴隷貿易で栄えたところでもある。アフリカ大陸から奴隷商人の手によって奴隷たちがザンジバルに集められ、収監されたのが奴隷市場である。地下の狭い空間に何十人もの奴隷たちが男部屋、女子供部屋に分けられて収監され、数日間拘置された後、生き残った者がオマーンなどのアラブ商人のもとへ売られていく。
こうした奴隷たちを解放したのがイギリスから来た宣教師で、彼は、奴隷市場の跡地に聖堂を建てた。奴隷たちは皆、自分たちを助けてくれたキリスト教の洗礼を受けた。
奴隷の子孫だと名乗るガイドがついて来てそんなふうに説明してくれる。まあ、実際はおそらくそんな単純なものではないにせよ、こんなけっこう扇動的な説明をしてしまうのだなと思った。
同時に、ムスリム人口9割のザンジバルでは、たとえ憂さ晴らしのような小競り合いはあったとしても、宗教を理由とした暴動や騒動は現実には起こりにくいのではないかと思った。しかし、それは、奴隷たちの子孫による憎しみが消えることを必ずしも意味しないだろう。
迷路のようなストーンタウンの街歩きはとても面白かった。インターネット接続の状況がよくないので、今回はここまでとし、後は次回へ。
2014年7月25日金曜日
赤い◯◯と緑の☓☓をお供に旅に出る
つい数日前まで、この国は大統領選挙の開票結果発表でけっこうな騒ぎだったはずだが、なにか遠い昔の話のような気がしてくる。
7月25日、金曜日はまだ平日なのに、周囲はすでにお休みモード。来週のレバランを前に、故郷へ帰省する人々で道路は大渋滞、鉄道は大混雑、という報道が続く。
スラバヤはやはり地方都市なのだろう。帰省といっても、スラバヤの周辺に住んでいる人が多く、ジャカルタのように遠くから働きに来ている人々は意外に少ない様子だ。スラバヤへ帰ってくる人のほうがスラバヤから帰る人よりも多いのではないかと思える。
そんなこんなだが、筆者もようやく仕事気分を抜けだして、7月26日〜8月10日の約2週間、旅に出ることにした。
いつもならば日本へ帰るのだが、7月5〜19日に帰国したばかりだし、9月3日に就労ビザが切れるので、8月後半はインドネシアに居なければならないし、出かけるなら今このレバランの時しかない、と決意して、だいぶ前から準備してきた。
旅先は、東アフリカ。タンザニア、ルワンダ、ウガンダの3ヵ国を旅行する。すべて初めての国。アジア、インドネシアにどっぷり浸かった自分を、もう一度、リフレッシュするための旅でもある。
お供に連れて行くのは、2つの携帯端末。赤いガラケーと緑のアイフォンである。
赤いガラケーはノキア208。3.5GのGSM/WCDMA仕様で、日本を含む世界中で使えるデュアルSIM携帯。あえてガラケーにしたのは、通話専用で使うためだ。電池の持ちもずっとよい。
ノキア208にインドネシアで使っている携帯SIMを入れて、通話とSMSのみに使う。いずれ、日本の携帯もSIMを外して、ノキア208へ入れて使う予定。1台でインドネシアと日本のSIMを使う。デュアルSIMは3Gと2Gの組み合わせだが、通話とSMSならとくに問題はないはずである。
ノキア208のSIMはマイクロSIM、日本語は使えないので、SMSはアルファベットのみ。でも、日本語でSMSを多用する人は多くないだろう。
緑のアイフォンは、SIMフリーの5S(ゴールド)に緑色のLIFEPROOFを着せたもの。防水・防塵用のカバーである。インターネット接続、SMS以外のメッセージ(Whatsup、LINE、BBMなど)はこちらで対応する。日本語でのメッセージのやり取りはこれを使う。
緑のアイフォンはデータ専用で、行った先でSIMを入れ替えて使用する。インドネシアではXLを使っているが、通話用ではないので、電話番号は非公表。それでも時々怪しい電話がかかってくるので、それはすべて着信拒否にしている。日本ではNTTコムの格安SIMを入れて使用、7月に帰国した際は、LTEも拾ってくれてとても快適だった。
この結果、長年の友だったブラックベリーとはお別れした。BBMは緑のアイフォンで対応するし、通話用の携帯をデュアルSIMにして1台にするほうを選択した。
というわけで、連載締切原稿もお休みにさせていただいて、久々に全く仕事を持たずに旅に出る(仕事のメールは追いかけてくるのだろうけれど)。
東アフリカのインターネット事情はよくわからないが、来週のイドゥル・フィトゥリには、向こうからインドネシアなどのムスリムの友人たちに「おめでとう」を言えることを願っている。もちろん、ブログ、フェイスブック、ツイッターの更新も。
東アフリカを旅するにあたってのアドバイス、耳寄り情報など、いろいろ教えてほしい。
では、行ってきま〜す!
スラバヤはやはり地方都市なのだろう。帰省といっても、スラバヤの周辺に住んでいる人が多く、ジャカルタのように遠くから働きに来ている人々は意外に少ない様子だ。スラバヤへ帰ってくる人のほうがスラバヤから帰る人よりも多いのではないかと思える。
そんなこんなだが、筆者もようやく仕事気分を抜けだして、7月26日〜8月10日の約2週間、旅に出ることにした。
いつもならば日本へ帰るのだが、7月5〜19日に帰国したばかりだし、9月3日に就労ビザが切れるので、8月後半はインドネシアに居なければならないし、出かけるなら今このレバランの時しかない、と決意して、だいぶ前から準備してきた。
旅先は、東アフリカ。タンザニア、ルワンダ、ウガンダの3ヵ国を旅行する。すべて初めての国。アジア、インドネシアにどっぷり浸かった自分を、もう一度、リフレッシュするための旅でもある。
お供に連れて行くのは、2つの携帯端末。赤いガラケーと緑のアイフォンである。
赤いガラケーはノキア208。3.5GのGSM/WCDMA仕様で、日本を含む世界中で使えるデュアルSIM携帯。あえてガラケーにしたのは、通話専用で使うためだ。電池の持ちもずっとよい。
ノキア208にインドネシアで使っている携帯SIMを入れて、通話とSMSのみに使う。いずれ、日本の携帯もSIMを外して、ノキア208へ入れて使う予定。1台でインドネシアと日本のSIMを使う。デュアルSIMは3Gと2Gの組み合わせだが、通話とSMSならとくに問題はないはずである。
ノキア208のSIMはマイクロSIM、日本語は使えないので、SMSはアルファベットのみ。でも、日本語でSMSを多用する人は多くないだろう。
緑のアイフォンは、SIMフリーの5S(ゴールド)に緑色のLIFEPROOFを着せたもの。防水・防塵用のカバーである。インターネット接続、SMS以外のメッセージ(Whatsup、LINE、BBMなど)はこちらで対応する。日本語でのメッセージのやり取りはこれを使う。
緑のアイフォンはデータ専用で、行った先でSIMを入れ替えて使用する。インドネシアではXLを使っているが、通話用ではないので、電話番号は非公表。それでも時々怪しい電話がかかってくるので、それはすべて着信拒否にしている。日本ではNTTコムの格安SIMを入れて使用、7月に帰国した際は、LTEも拾ってくれてとても快適だった。
この結果、長年の友だったブラックベリーとはお別れした。BBMは緑のアイフォンで対応するし、通話用の携帯をデュアルSIMにして1台にするほうを選択した。
というわけで、連載締切原稿もお休みにさせていただいて、久々に全く仕事を持たずに旅に出る(仕事のメールは追いかけてくるのだろうけれど)。
東アフリカのインターネット事情はよくわからないが、来週のイドゥル・フィトゥリには、向こうからインドネシアなどのムスリムの友人たちに「おめでとう」を言えることを願っている。もちろん、ブログ、フェイスブック、ツイッターの更新も。
東アフリカを旅するにあたってのアドバイス、耳寄り情報など、いろいろ教えてほしい。
では、行ってきま〜す!
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