11月10日は「英雄の日」(Hari Pahlawan)。1945年8月17日のインドネシア独立宣言の後、再び侵攻してきた旧植民地宗主国オランダを含む連合国軍に対して、インドネシアが真の独立のために立ち上がった日、とされる。
その発火点は、スラバヤだった。この日を契機に、スラバヤ市民が武器を持って立ち上がり、連合国軍と激しい市街戦を繰り広げることになった。そのなかでも有名なのは、オレンジ・ホテル(旧ヤマト・ホテル、現在のマジャパヒト・ホテル)の屋上に掲げられたオランダ国旗を若者が引き下ろし、旗の青い部分を切り裂いて、赤白旗(インドネシア国旗)として掲げた、というエピソードである。マジャパヒト・ホテルの屋上には、その話がインドネシア語と英語で記されている。
11月16日には、英雄の日にちなんで、モジョクルトからスラバヤまでのウォーキング・イベントが行われ、3000人以上が参加した。スラバヤでの住民蜂起に加わるため、モジョクルトをはじめとする地方都市から人々がスラバヤを目指した、という話が元になっているらしい。
そんななか、このときの様子を連合国軍側がどう見ていたのかについて書かれた新聞記事を目にした。
The untold story of the Surabaya bettle of 1945
これによると、日本軍が降伏した後、多くのオランダ人やヨーロッパ人が日本軍収容所から解放されたが、ほどなく、何百人もが殺害された。彼らに協力的で彼らのスパイと見なされた華人、アンボン人、ティモール人なども殺害の犠牲になった。
オランダ側は、これらの殺害が住民による暴発的なものではなく、青年将校らによる計画的・組織的なものであると判断した。オランダ側は、1945〜1946年に殺害された者の数を、オランダ人やヨーロッパ人が約2万5000人、華人、アンボン人、ティモール人などが約1万人、と見ている。
「オランダが再植民地化する」という恐怖を煽り立てていたのは、誰だったのか。あるいは、本当にオランダはそう考えていたのか。
インドネシア側では、1945〜1949年は、再侵攻してきた外敵と独立戦争を戦った聖なる時代と見なされる。しかし、もし、上記の連合国軍側の見方が正しければ、インドネシア側にも知られざる暗い闇が存在することになる。
同様の闇は、1965年9月30日事件とその後の共産党シンパに対する弾圧においても存在する。これらの闇を、大多数のインドネシア人は、政府から知らされずにきている。
歴史というものは、勝者の歴史しか残らない。もしあの時、連合軍側が再植民地化に成功していれば、おそらく、上記の殺害の話は正史として前面に出たことであろう。1965年9月30日事件も、共産党側が勝っていれば、歴史認識は異なったはずである。
過去の歴史に「もし」は禁物かもしれない。でも、もし、オランダ人らに対する殺害が一切起こらなかったら、オランダは本当に再植民地化したのだろうか。殺害にショックを受け、「インドネシア側を懲らしめなければならない」という意識がオランダ人側に起こったのかもしれない。オランダ側のインドネシア側に対する蔑視や軽蔑の感情をどう考えたらよいのか。
どんな人間も、自分が生きてきた過去を自分で否定したくはない。自分の生きざまを正当化しようとするのが常である。自分に都合のいいように解釈するものである。
インドネシア側から見える英雄が、オランダ側からはただの殺人者にしか見えないこともあり得るのである。
立場を変えれば、という点では、最近、フェイスブックで見かけた「お父さんは桃太郎という奴に殺されました(by 鬼の子供)」や、それをアレンジした「お父さんはボランティアという奴に殺されました(by 援助先でコミュニティがずたずたにされた子供)」にも、同じ視点がある。
「もう一人の自分」を自分のなかに持ち、立場を変えて、冷めた目で両方からみることのできるように努めたいと思っている。
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