金曜日の夜だからなのか、あるいは金曜日の夜なのにといったほうがいいのか、観客はごく少数だった。リリの前作『アタンブア摂氏39度』も、観客動員数が少なく、すぐに映画館上映が打ち切りとなったのを思い出す。インドネシアの人々の映画に求めるものは、娯楽性に集中しているのかもしれない。
さて、『ソコラ・リンバ』である。リンバとは、スマトラ島ジャンビ州の山間部に住む地元民で、外界との接触を避け、昔からの慣習法を尊重し、森林を生かした生活を営んできた。男性はふんどしのような腰布のみの服装である。ほとんどが読み書きできず、ジャンビの下界の住民からは未開人の扱いを受けている。
そこへ、ブテットという名の一人の若い女性が乗り込んで、彼らに「読み・書き・そろばん」を教え始める。しかし、彼女の行為は、彼女の所属するプロジェクトの責任者からも、また、リンバの大人たちからも、否定的な扱いを受けることになる。
そんなシーンのなかで登場したのが、「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉だった。ブテットの下で学ぶことの面白さに目覚めてしまった息子を怒る母親の言葉である。
昔観た、パプアの地元民とジャカルタから来た青年との交流を描いた映画でも、パプアの子供たちに読み書きを教えるシーンがあった。その映画では、パプアの子供たちがジャカルタの青年たちのように、教育を受けて、自分たちのように文明化して欲しい、というメッセージが込められているのを感じた。
今回の『ソコラ・リンバ』は、そんな、ある意味、お目出度い、単純な話ではない。パプアの話とは全く異なるメッセージが込められている。どのように単純でないのか。是非、この映画を観て、皆さん自身でそれを受けとめて欲しい。
「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉には、教育が慣習法社会への尊敬を失わさせ、教育を受けた者を余所へ連れて行ってしまい、戻ってこなくさせる、という意味も込められている。我々は、教育を授ける側の目で、「良いことをしてあげている」「自分たちのように良い生活を送って欲しい」「貧しさから逃れて豊かな暮らしを」というようなことを相手に対して無意識に思っている。しかし、相手が教育をどのように捉えているかについては、想像力が欠けている。というか、教育の使命に燃えている人ほど、相手の捉え方を想像すること自体に、思いを至らせないのである。
リンバの人々が暮らす森にも、オイル・パーム農園の開拓のための森林伐採が迫り、彼らは自分たちの居住地を追われて、次から次へと居住先を移らざるを得ない。リンバの人々は森が消えていく恐怖を日々感じながら生きているのだが、開発業者の用意した同意書に、訳も分からず血判を押してしまう。
その同意書が読めれば、森を守れるはず。そう思ったリンバの青年がブテットの元に通って読み書きを学び、母親から「鉛筆が病気を持ってくる」と叱責されるのである。
地元の人々が自分たちの生活を守り、彼らなりの主体性をもって生活を向上させていくためには、余所者にだまされない力をつけなければなるまい。「それが読み書きである」とブテットは信じている。
そして、すでに読み書きのレベルを超え、文明に触れ、新しい生活様式になり、豊かになりたい、そのためにはカネの世界だ、という衝動を抑えられなくなった我々が、余所者にだまされない力の源は、もはや忘れてしまいつつある、自分たちの足元をしっかりと知り、理解することであろう。
我々の身の回りの様々な「開発」、生活を豊かにしてくれる、魔法のようなその言葉に、我々は頻繁にだまされてきた。そして、今もだまされ続けている。だまされないためには、我々も余所者を知らなければならない。学ばなければならない。
しかし、その学ぶ過程で、我々自身が「余所者」へ変わっていってしまう可能性が少なくない。『ソコラ・リンバ』ではそこまでは描かれていないが、そんなことも思った。
「鉛筆が病気を持ってくる」という言葉を、自分自身を見失わないための戒めの言葉としても、受け止めたいと思う。
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