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2014年10月9日木曜日

福島、山形、仙台、新宿

10月4〜14日の予定で日本に一時帰国している。

さっそく、10月6〜7日に福島、7〜8日に山形、8日に仙台に寄ってから東京、という日程をこなしてきた。

福島では実家に帰るとともに、前から会いたかった方々3名にお会いした。震災後、たくさんやってきていた外部者による支援、潮が引くように減っている状況がうかがえた。今後の活動は、おそらく外部者による支援という形ではなく、様々な人々による共創になっていくのではないか。そんな思いを強くした。

山形では、山形ビエンナーレを駆け足で見学した。見学できたものはわずかだったが、東北、山、門といったものが「ひらく」ということを象徴するように思えた。表現の一つ一つに、粗削りではあるが、ふつふつとほとばしる力を感じた。




山形ビエンナーレを見学しながら、東日本大震災のとき、真っ先に支援物資供給などで動いたのが山形だったことを思い出していた。青森、岩手、宮城、福島は交通が遮断されて孤島になっていたとき、物資輸送の後方支援基地として山形が果たした役割を忘れることはできない。

東北芸術工科大学。以前、筆者はこの大学の『東北学』のシリーズを購読し、友の会の会員だったが、その頃から一度来てみたかったキャンパスだった。ほんのわずかの滞在だったが、キャンパスから見た夕日は、建物の前にある池にも映えて、とても美しかった。




この大学に着いたとき、バス停の前は学生たちの長蛇の列だった。時刻表を見ると、山形駅行きに加えて、何と仙台行きのバスもある。仙台からだと、きっと1時間ぐらいで着くのだろう。

東北芸術工科大学内で「東北画は可能か?」という展示を見た後、山形駅行きのバスの時間を気にしながらバス停に来ると、バスは停まっているが、学生の長蛇の列は消えていた。あの学生たちは皆、仙台行のバスに乗ったのだった。

山形駅行きのバスの乗客は、私を含めてわずか2名だった。

後で聞いたら、山形の大学で学ぶ仙台出身の大学生は、ほとんどが仙台から大学へ通っているとのことである。たしかに、繁忙時の山形=仙台間の高速バスは5分おきに運行されている。片道930円、通学定期券ならもっと安いだろう。

他方、福島出身の学生は、山形に下宿する傾向が強い。福島から通学できる交通手段が鉄道ならば山形新幹線しかなく、費用もかかる。福島=山形の高速バスは、夜行以外はない。事実、福島から山形へ車で行く場合は、仙台経由の高速道路で行くのが普通なのである。

山形の夜は、ジャカルタでお世話になって以来、約15年ぶりに知人との再会を楽しんだ。3種類の日本酒冷酒の飲み比べをしたが、十四代の吟醸酒というのがとても美味しかった。後で聞いたら、なかなか手に入れられない高価な日本酒なのだとか。日本酒に詳しくない自分が飲んでしまって、飲んべえの皆様にちょっと申し訳なかった。

最後の締めの肉そばが格別に美味しかった。


8日は、山形駅前から高速バスで仙台へ出た。1時間。快適なバス移動だった。JICA東北で1時間ほど打ち合わせ。東北ともじっくり関わっていく予感が沸いた。

駅前の利久西口本店で牛たん定食を堪能した後、初めて乗る「はやぶさ」で東京へ戻った。仙台=大宮がわずか1時間、早さを本当に実感した。

8日の夜は、友人の原康子さんが出した『南国港町おばちゃん信金:「支援」って何?”おまけ組”共生コミュニティの創り方』という本の出版記念トークイベント(紀伊国屋書店新宿南口店)を覗いた。



コミュニティ開発などの開発援助の現場では、よそ者がそこの人々の自立をどのように促すかがもっとも重要である。そのための「支援しない」技術を体得した原さんの面白トーク炸裂だった。「支援しない」技術が求められるのは、開発援助の現場だけではない。日本でも、職場でも、家族でも、どこでも。もちろん、東北でも。

この本の申し込み・購入は、以下から可能です。

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2014年4月26日土曜日

プトラくんとプトリちゃん

今回の「父」との日本旅行中に、京都で西本願寺の聞法(もんぼう)会館という宿に宿泊した。和洋室に「父」とその妻、私の3人で泊まり、私は和室で寝た。なかなか快適だった。

そこのお土産物屋コーナーで見つけたのが、この文房具セット。


プトラくんとプトリちゃん、とある。これは、本願寺のキャラクターらしい。しかも、ゆるキャラで、着ぐるみまであるようだ。

 天真寺日記

インドネシア語では、プトラといえば「息子」、プトリといえば「娘」である。たとえば、スハルト元大統領の3男はフトモ・マンダラ・プトラという名前であり、スカルノ初代大統領の娘で闘争民主党党首の名前は、メガワティ・スカルノプトリ、である。

プトラもプトリもサンスクリット語起源ということで、本願寺のキャラクターとして愛されているようだが、「息子」「娘」との思いがけない「出会い」であった。

2014年4月23日水曜日

「父」と日本旅行中(2)

後半は、「父」とその妻を連れて大阪・京都へ行った。毎日、ホテルが変わるなど、84歳の「父」には厳しいスケジュールで、さすがにちょっと疲れが溜まってきた様子だった。

大阪のメインは、20年前、私の前の職場へ客員研究員として来ていたときに、ホームステイした先のご夫妻との再会である。正確にいうと、大阪ではなく宝塚である(宝塚は兵庫県だし・・・)。

実は、数か月前、「父」からこのご夫妻の連絡先を探せとの求めがあった。分かっていたのは名前と宝塚に住んでいるということだけ。「日本人だから全ての日本人を知っているはずということはありえない」と何度も言って諦めさせようとしたのだが、「それなら電話帳を使って探せ」とまで言われた。

日本へ帰国した折に、宝塚まで行って電話帳で探さなければならないのか、とあきれていたら、「ほれ、これが電子メールアドレスだ」と「父」から連絡があった。早速、そのアドレスへメールを送ってみた。一度戻ってきた。そのアドレスのドメインが新しく変わっている可能性がありそうなので、新しいドメインにして送ったら、戻ってこないので、それで安心していた。しかし、インドネシアを発つ数日前になっても何も返事がない。

と思っていたら、再び「父」から「メールはどうした? これがメールアドレスだ。ちゃんと連絡しろ」と再度の連絡があった。メールアドレスが前のと違っていた。新しいアドレスへ送ったところ、翌日、戦法から「是非お会いしたい」とのメールが帰ってきた。

そんなこんなで、宝塚のホームステイ先と4月20日に再会することができた。そして、翌21日、ホームステイ先の奥様と「父」とその妻の3人で、宝塚大劇場で宝塚歌劇を堪能した。最初は「父」だけ行けばいいと乗り気でなかった「父」の妻も、「とってもきれいな人がたくさんでてきたのよー。ステキ~」と大感激の様子。「父」も満足の様子だった。



宝塚の街は、宝塚歌劇の存在を前提にし、かつての遊園地などがなくなった今、景観を重視した落ち着いた住みやすい街となっていた。市の花であるハナミズキが沿道に咲き誇り、宝塚大劇場周辺は、色合いを統一して美観を保っている。時々、すらっと姿勢の良い背の高い女性が街なかを歩いているのに出会う。宝塚歌劇の女優さんである。


宝塚でホームステイ先のご夫妻と別れを惜しんだ後、京都へ移動。ちょうど帰宅ラッシュ時で、荷物もあるので、時間はかかるが、JR宝塚からJR京都線の高槻まで普通電車に乗り、高槻で京都行へ乗り換えた。ちょっと長旅で疲れた様子。

4月22日、京都では、歩くのが辛い「父」のためにタクシーをチャーターし、金閣寺と龍安寺に行った。金閣寺は外国人観光客でごった返しており、すごい人数だった。そんななかで「父」はインドネシアから来た観光客を見つけ、満足そうだった。


龍安寺では、石庭の良さが今ひとつよく分からなかった様子。京都の寺院を巡って様々な庭を愛でるには、あと数日は必要だと納得してもらった。



蕎麦屋で昼食の後、京都大学東南アジア研究所を訪問。旧来の知人である水野教授の案内で図書館をまわり、最後はインドネシア語で歓談。久々にインドネシア語全開で、思う存分語り合った後、タクシーで京都駅へ送ってもらい、新幹線で東京へ戻った。

東京では、東京スカイツリーの見えるホテルにチェックイン。雨で見えないかと思ったスカイツリーは、最上部を除いておおかた見え、「父」は満足。でも、「父」が初めて東京を訪れた1959年の東京タワーにまつわる思い出とどうしても混ざってしまうようだった。

ちょっとお疲れ気味の「父」だが、20年前と日本は大きく変わった、と繰り返していた。鉄道がより便利になったこと、あちこち花がきれいに植えられていること、エレベーターやエスカレーターが備えられて歩きやすくなっていること、外国人の姿がずっと多くなったことなど、いろいろ「父」なりに感じたことがあったようだ。そして、今回の旅を題材に、昔と今の日本についての印象を書いてみたいとまで言っている。その意欲には脱帽するしかない。

4月24日のガルーダ便で、インドネシアへ戻る。筆者も「父」と一緒に戻る。

2014年4月19日土曜日

「父」と日本旅行中(1)

4月16〜23日は、ジャカルタの「父」ハリリ・ハディ氏とその奥様と一緒に日本に来ている。

「父」にはすでに30年近くお世話になっている。インドネシアには何人かの「父」や「母」がいるが、そのなかでも最も長くお付き合いしている方である。

初めて「父」が来日したのは1959年、アメリカのカリフォルニア大学バークレー校で学んだ帰りに3ヵ月間立ち寄ったときである。当時、一橋大学の板垣與一先生(故人)にお世話になったそうである。

その後、1969年に、できたばかりのアジア経済研究所(アジ研)のインドネシアからの初代客員研究員として滞在、1991〜1992年には2回めの客員研究員でアジ研に籍をおいた。当時、筆者は、アジ研の海外派遣員としてジャカルタにおり、インドネシア大学大学院で学んでいた。「父」に保証人をお願いしていたので、滞在ビザ延長のための保証人レターを書いてもらうのに、ちょっと苦労したことを覚えている。

「父」はインドネシア大学の先生だったが、後にインドネシア国家開発企画庁(バペナス)に移り、最後は、バペナスの地域開発担当次官で定年退職となった。

今回の「父」の訪問はそのとき以来、20数年ぶりである。「父」はすでに84歳、毎年、メッカへウムロー(巡礼期間以外にメッカを訪れること)で行っているが、今回はどうしても日本へ行きたくなり、私がフルアテンドで付き添うことになったのである。

私には、「父」にフルアテンドをしなければならないと思う理由がいろいろある。私にとっての恩人なのである。

16日に到着し、17日は、サクラをみるために、東北新幹線で筆者の故郷・福島へお連れした。花見山は全山満開で、福島の春の美しさを堪能できた。





花見山の後は、信夫山の第1展望台にのぼって、福島旧市街を展望した。福島の空は、ちょっと白く曇っていた。


「父」をお連れしながら、福島のことを思っていた。福島へいろいろな人が訪れるということが、今後の福島にとってどんなプラス・マイナスの意味を持っているのか、と。でも、富士・箱根や鎌倉へ行きたいと当初言っていた「父」が、「お前の田舎を見てみたいから、福島へ行きたい」と言ってくれたのは、正直いって嬉しかった。

「父」には筆者の実家にも寄ってもらい、母にも会ってもらった。あまり人と会うこともない母が一生懸命付き合ってくれた。わずか30分の帰省だったのが残念だったが、福島は日帰りで、筆者も東京で夜、予定が入っていたのでやむを得なかった。

福島の春の花々の美しさとともに、実家に寄ったのが、まるで夢だったかのような気分になった。

18日は、筆者の昔の職場であり、「父」が客員研究員として籍をおいたアジア経済研究所を訪問した。筆者自身ももうだいぶ訪問していなかったが、会う方会う方、皆、昔の仲間で、本当に懐かしかった。

仲間たちに心のこもった接待を受け、「父」はとても満足そう。途上国研究としては世界最大級の蔵書数を誇るアジ研図書館では、かつて、「父」が最初に客員研究員だったときの客員研究員レポートがみつかり、大喜びだった。


日曜からは、大阪、京都へ「父」をお連れする。

2014年4月11日金曜日

スラバヤ観光地図2014完成!

「スラバヤについて興味はあるけど、どこに何があるかよく分からないんだよね」という声を時々聞く。日本語で書かれた観光ガイド地図のようなものがあればいいのになあ、と思っていたら・・・。実は、それがあった。


日本語で書かれた「スラバヤ観光地図2014」。作ったのは、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の大学3年生。同学科では、日本語教育の一環として、この地図を作っている。次も、新3年生がこの地図の改訂版を作る、とのことだ。

一見したが、意外によく出来ている。施設の説明などでは、住所、電話番号、営業時間も書かれている。筆者がこれまでさんざん見たことのある地方政府の日本語観光パンフレットよりもはるかに出来がよい。

もちろん、最新情報に基づいて、訂正すべき箇所がないわけではない。それは指摘して訂正していく必要がある。でも、スラバヤについて日本語で書かれた地図はおそらくこれが最初ではないだろうか。

筆者としては、この地図を電子データ化して、少なくともPDF化して、タブレット端末でも見られるようにするとよいと思った。そうすれば、スラバヤを訪れる人たちが前もってダウンロードして使えるようになる。

さて、地図を作ったら、その次はどうするのか。そう、もちろん、地図を使って、スラバヤの街を歩くのである。その際、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の学生たちが日本人の方々をガイドする用意がある、とのことである。できれば、古い建物をめぐるコース、地元の市場の探検コース、宗教寺院をまわるコース、食べ歩きコース、などのコースを作って、この地図を片手に街歩きできるといいなと思う。

この地図を入手されたい方、大学の学生たちと一緒にスラバヤの街歩きをされたい方は、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科までご連絡を。もちろん日本語OKである。

 国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科
 Tel: +62-31-5035676, Fax: +62-31-503-5808
 Email: japanologyunair@yahoo.com
 担当: 清水千恵さん(JICA青年海外協力隊員)

2014年4月1日火曜日

スラバヤを「桜」の街に

日本は今、東京を始め各地で桜が満開になっているようだが、インドネシア人の知人たちの間で、なんとスラバヤの「桜」が話題になっている。

雨季が始まる頃に咲く、スラバヤの「桜」。白、ピンク、黄色の花が咲く。花が咲き終わってから葉っぱが出てくるため、「桜」と同じだー、と言われているのである。

インドネシアの週刊誌『テンポ』の以下の写真ページを参照いただきたい。

 Indahnya 'Bunga Sakura' di Surabaya

以下の日本語ウェブサイトでも、スラバヤの「桜」のことが取り上げられている。

 【インドネシアで桜の木?】スラバヤに咲き誇る「桜」の美しさ

このスラバヤの「桜」、実は桜ではない。桜はバラ科サクラ亜科サクラ属で学名がPrunus, Cerasusであるのに対して、スラバヤの「桜」はタベブイアと呼ばれ、ノウゼンカズラ科タベブイア属の花を咲かせる樹木である。

スラバヤは緑の多い街である。よくみると、ただ単に緑が植えられているのではなく、花の咲く樹木が街路樹に植えられ、また、道路に面した公園や花壇には、様々な花が計算された配置に基づいて植えられていることが分かる。

そんな街路樹として、主要な通りに植えられているのが、このスラバヤの「桜」である。スラバヤ市のリスマ市長は「桜を愛でるなら、日本に行かずとも、スラバヤへ来ればいい」と言いながら、積極的にタベブイアを植えてきた。

本物の日本からの桜でないことを残念がる方もいるかもしれない。しかし、日本の桜の美しさをよく知っているからこそ、スラバヤにもそんな「桜」をたくさん咲かせてみたい、「桜」並木のある街にしたい、とリスマ市長は思ったのだろう。

スラバヤ市は、昔のゴミ最終処分場跡を公園化し、そこに「桜」を始めとして様々な花を植える計画を進めている。その計画に対して、国営BNI銀行が30億ルピア(約2700万円)を寄付すると申し出た。以下がその記事である。

 BNI Kucurkan 3 Miliar untuk Taman Sakura Surabaya

リスマ市長は、スラバヤを「桜」の咲き誇る街にしたいのだ。街としての美観+潤いのある街にしたいのである。やはりこの市長は只者ではない。

世界中の市長を評価する『シティメイヤーズ』サイトは、リスマ市長を2014年2月の「メイヤー・オブ・ザ・マンス」に選んだ(英文記事はこちらから)。

今年も日本で花見ができなかった。でも、スラバヤが「桜」の咲き誇る街を目指すという話を聞いて、なんだかとっても嬉しくなった。

スラバヤ生活も4月1日から2年目に入った。この街がどんどん面白くなってきた。

スラバヤの街なかに咲く花の写真を少しずつ撮り始めた。「桜」はまだだが、花の話題にしては殺風景なので、花の写真をひとつ載せておく。


2014年3月31日月曜日

東ジャワ州の日本語人材を活用せよ

先ごろ、日本の大学へのインドネシア人留学生を選抜する文部科学省の国費留学生試験が実施され、1次・2次の合格者が決まったようである。

複数の人から聞いたところによると、インドネシア国内で合格者が最も多かったのは、東ジャワ州マラン市にある国立ブラウィジャヤ大学で、8人が合格したという。この8人という数字、1校あたりの合格者としてはかなりの合格率ではないだろうか。もしかすると、世界的に見ても、最も多い合格者だったかもしれない。

そのほか、東ジャワ州スラバヤ市にある国立アイルランガ大学から3人、日本語教師養成コースを持つスラバヤ国立大学からも2人が合格、そのほか同じスラバヤ市内の私立ストモ博士大学からも合格者が出た可能性がある。

一方、西ジャワ州デポック市にある国立インドネシア大学からの合格者は1人、ジョグジャカルタ特別州の国立ガジャマダ大学からは合格者がいなかった様子である。

すなわち、今回の国費留学生試験の合格者の大半は東ジャワ州から出た、ということになりそうである。

国立ブラウィジャヤ大学の日本語科では、大学学部卒業までに日本語能力試験のN2に合格することを目標に、日本人のI先生を筆頭に、N1を持つインドネシア人の先生たちが懸命に日本語を教えている。

昨年5月、筆者は、国立ブラウィジャヤ大学で「インドネシアの日系企業と日本の企業文化」と題して特別講義をしたことがあったが、約200人以上の学生が集まり、質疑応答に1時間以上を費やすほど、学生たちは熱心だったのが印象に残っている(下写真)。そのときに、「N2をとれれば日系企業に就職できるだろう」という話をした際に、がぜん盛り上がったのを覚えている。



私の知り合いの方は、国立ブラウィジャヤ大学の日本語科の優秀な学生たちを活用し、スカイプを使ったインドネシア語学習プログラムを試みている。興味のある方は、以下のサイトにアクセスして詳細を見て欲しい。

 日本インドネシア語学院

国立アイルランガ大学は、日本研究科であって必ずしも日本語科ではないが、学生たちが熱心で、すでにN2を取ってしまった者もいるため、先生たちの目が覚めた。毎週、時間を決めて、先生方が自主的に日本語能力を高めるための勉強会を行い、N1合格を目指すということである。

これまで、日本語人材といえば、日本研究センターを持つ国立インドネシア大学や国立ガジャマダ大学などの出身者に定評があるとされてきた。しかし、国費留学生試験の結果だけから見れば、ジャカルタ周辺ではまだあまり知られていない、東ジャワ州の大学が従来の有名大学を凌駕し始めている。

もちろん、東ジャワ州における日本語学習者の裾野も着実に広がっているし、自分の日本語能力を高めるために、日本人の方と接する機会を持ちたいと思っている学習者は相当な数で存在する。

今年は、スラバヤ市でも、ジャカルタ・ジャパン祭りのような、ジャパン祭りをやってみようではないかという意見が出ている。当地の日本語学習者を巻き込んで、むしろ、インドネシア側の意向を取り込んでいきながら、面白いイベントが出来ないものかと思っている。機会があれば、私なりの色々なアイディアを出してみたいし、各大学の関係者と話し合ってみたい。

ジャカルタ周辺で日本語人材の確保に努めていらっしゃる方は、この機会に、東ジャワ州の国立ブラウィジャヤ大学や国立アイルランガ大学などの関係者に、どんな様子なのか、聞いてみてはいかがだろうか。東ジャワ州には、意外に優秀な人材が留まっているかもしれない。そして、チャンスが有れば、彼らはジャカルタ周辺で働くことも厭わないことだろう。

いや、いっそのこと、投資環境が悪化してしまったジャカルタから、東ジャワへの企業移転またはビジネス機会の拡大を図ってみてはどうだろうか。ジャカルタ周辺と比べてもそこそこのレベルの日本語人材を活用することができるはずである。

2014年3月25日火曜日

日本へ行くのはちょっと・・・という印象

先日、スラバヤの街なかを歩いていたら、以下のような看板が目に入った。


北京・上海ツアーは8日間で650米ドル、日本歴史ツアーは7日間で1650米ドル。

このように並べられてしまうと、「日本へ行くのはちょっと・・・」という感覚にどうしてもなってしまうだろう。

何かもっと、中身をアピールする手立てはないものか。

インドネシアの人々は決して安さだけを重視しているわけではない。日本の良さを丁寧に、しかしインドネシアの人々が納得するように、アピールしていくほかないのではないか。

日本に行ってみたいというインドネシアの人々は数多い。逆に、最も安く日本へ行くのにこれだけで済む、というアプローチもありではないか。

一つの方法は、もっと、個人と個人のつながりや触れ合いを重視するようなアピールの仕方かもしれない。ホームステイや擬似的な家族づくりなど、まだまだ試すべき方法はいろいろあるだろう。

もっとも、東京の自宅は狭く、とてもお客さんを泊められるような状態ではないので、あまり大きなことも言えないのだが。

ともかく、フツーの個人どうしがもっとフツーにつながり、触れ合うことが、日本とインドネシアとの関係を深めていくのに最も効果的であると思っている。

2014年3月19日水曜日

水俣・・・祈り

3月16〜17日、水俣へ行ってきた。地元学を主宰する吉本哲郎氏にお会いし、自分なりに地元学を再学習する旅であった。地元学は深く新しく進化していた。

珠玉の言葉がたくさんあった。久々に目からうろこ状態になった。それらは、まだ自分のなかで十分に咀嚼しきれていない。自分のなかでまだなじんでいない。吉本さんの言葉を自分のものにするためには、まだ熟考と時間が必要な気がする。それらをブログに書いてしまうと、薄っぺらいものになってしまいそうな気がする。

人に何かを伝えるためには、言葉をもっと大切にすること。哲学や美学が必要であること。原理主義を排し、現実から出発すること。

水俣は、複合的な差別の渦巻く場所だった。そして今もそれを拭えていない。

水俣病患者への想像を絶する差別の嵐のなかで、なぜ、水俣病を患った故杉本栄子さんが「チッソを赦す」境地へ至ったのか。「人様が変わらないなら自分が変わるしかない」と思うに至ったのは、チッソが正しかったと認めたわけでは断じてないのだが。

果たしてチッソはそれを深い意味で受け止めているのか。自分に都合の良い薄っぺらい解釈で「ラッキー」と思っているにすぎないのではないか。

他方、福島第1原発事故で苦難を余儀なくされている方々は、この杉本さんの気持ちを深く理解できるだろうか。でも、政府や東電も、もしそうした赦しがあれば、自分たちに都合よく、薄っぺらく「ラッキー」と思うだけではないだろうか。

敵を赦す境地に至るとは、どれだけ壮絶なものか、理解できるだろうか。そして、それがなければ、水俣は前に進めなかったことを。それなしには、杉本さんが生きていけなかったことを。

祈りが大事だ、と吉本さんは言った。

水俣湾に面した記念公園に患者さんが置いた、点在する石像の写真を見直しながら、その意味を反芻している。

祈り。哲学。美学。そして覚悟。本物を創る意思。





2014年3月11日火曜日

東日本大震災から3年

先週から母校の先生方をインドネシア大学とガジャマダ大学へお連れし、アポのアレンジのほかに、ボロブドゥールへの案内などをこなした後、3月11日昼12時過ぎに、鉄道でスラバヤへ戻った。

静かな場所で一人、黙祷したかった。そこで、普段なら誰も客のいない、あるカフェで昼食をとる前に、黙祷したかった。

あいにく、普段とは違い、その場所には大勢の客が来ていた。彼らのざわめきから少し離れた席に着席し、その時を待つ。

頼んでいたアイスティーが運ばれてきたその後、西インドネシア時間午後12時46分、静かに手を合わせた。亡くなられた方々のご冥福と、生かされている私たちがこれから創っていく未来を、祈った。

この3年間、自分はどれだけ真剣に生きてきただろうか。どれだけ、新しい未来を創るために動いてきただろうか。そして、またあのいつもの問いが頭をよぎる。自分はインドネシアにいて本当によいのだろうか、と。

復興、再生、いや新生なのか。コミュニティという言葉の持つ心地よさと危うさ。生きていくための理想と妥協。賛成か反対かしか聞こえてこない意見の二者択一化。自分で考える力の衰退。

希望なんて、簡単に生まれるものではないことぐらい分かっている。それでも、誰かが希望のタネを様々な形で撒き続けなけれなばらない。

3年前、私たちが諦めなければならなかったものは何だったのか。私たちがしなければならなかった覚悟とは何だったのか。

諦めなければならなかったのは、たとえば、亡くなった家族や友人、失われた家や町や故郷。しなければならなかった覚悟は、たとえば、亡くなった方々に恥じない人生を歩んでいくこと、もっと素晴らしい家や町や故郷を作り直していくこと、原発に依存しない未来を作っていくこと。

だとするならば、これからの人生は本気の本物の人生を歩んでいかなければならない。本物の家や町や故郷を作り直していかなければならない。

諦めろ。覚悟しろ。本物をつくれ。

私が地元学を学んだ水俣の吉本哲郎氏が福島へ送ったメッセージである。

私たちは本物をつくってきたのだろうか。作ろうとしてきたのだろうか。本物はそこにいる者の中からしか生まれない。よそ者が何かをつくっても、そこにいる者の魂が込められなければ、本物にはならない。

今でも、復興や再生や新生へ向けての様々な活動が取り組まれている。大事なことは、それが本物であること。もし、そうでなければ、それを本物にしていくことである。

このことを、改めて、肝に銘じている。

2014年2月8日土曜日

日本出張から戻って

1月30日にジャカルタを出発し、2月7日にジャカルタへ戻ってきた。今日(8日)はジャカルタで仕事があり、明日(9日)昼過ぎにスラバヤへ戻る。

今回は、前回の年末年始帰国とは違い、仕事のための帰国だった。2月4~6日に講演やレクチャーなどがびっしり入った。そこで、比較的余裕のある1月31日~2月3日は福島、滋賀、大阪へと動こうと思っていたのだが…。それらはすべてキャンセルとせざるを得なくなった。

福島、滋賀でどうしてもお会いしたい人がいた。今の自分にとって、一番、会って直接お話が聞きたい人だった。

何というタイミングで妻が病気で寝込んでしまったのだろう、と、本当に残念だった。大学受験生の娘もいる。キャンセルした後、ずっと家で、久々に料理を作ったり、洗濯をしたり、家事らしいことを少しやってみた。「お父さんの作る料理はおいしい」と娘からお世辞を言われるのも、まんざらではなかった。

自分にとって、何が大事なのか。大事なものの優先順位を改めて自問した。言うまでもない。何よりも大事なのは、家族だ。

今、自分がこうして、インドネシアを拠点に単身で活動できるのも、家族が健康で元気に過ごしてくれているという安心感があってこそである。いつでも電話やメールで連絡できると分かっているからこそ、1ヵ月に1回しかやりとりしなくても、便りがないのはよい便り、と思うことができる。こんな家族生活を始めてから、すでに7年以上が経った。

チャンスはそうそうあるものではないから、チャンスがあったら絶対に逃すな、という言葉には真理がある。しかし、チャンスを得ることで大切なものを失うこともある。もちろん、逆に、チャンスを逃して、なおかつ大切なものを失うこともある。欲張りな私は、チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。

でも、目の前で寝込んでいる妻を見捨てて、福島、滋賀、大阪へ出かけることはできなかった。

幸い、妻の状態は6日までにずいぶん持ち直した。すぐに回復することを願う。

自分は甘いのかもしれない。世の中で何かをなした人たちのなかには、家族を犠牲にしたり、極貧の状態にあえいだり、病気になったりしても、自分がなすべきことをなそうとして実際になした人々がおり、後世ではその生き方が称賛されたりもする。私はそこまで行けない。

2月5日・6日は、朝から晩までほぼ全日、かなりの数のアポが入った。それを懸命にこなしながら、ふっと気を抜くと、寝不足ということもあり、風邪を本格的に引きそうな、あるいはふらっとそこに倒れてしまいそうな、そんな気分になった。

その意味で、翌7日、家でゆっくり休まずに、飛行機に乗り、インドネシア・ジャカルタへ飛んできてしまったのは、良かったのかもしれない。今のところ、日本で乾燥した皮膚がちょっとボロボロになる程度で済んでいる。

真剣に生きる、ということを、今まで以上に強く思い始めている。チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。欲張りな自分でいきたい。

2014年1月13日月曜日

とねりこ made in Fukushima

先週、福島へ行っているときに、すてきな雑誌と出会った。のはら舎という、福島の小さな地元出版社が発刊した『とねりこ』という雑誌である。リンクページをご覧いただき、是非、皆さんにも購読していただきたい。

 とねりこ




「ちいさくても思いたかく」という副題がついている。そこに、この雑誌を出版した側の思いが深く込められている。

とねりこのページには、創刊にあたって次のようなメッセージが書かれている。


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 東日本大震災と原発事故から、間もなく丸3年を迎えようとしています。現在、メディアで取り上げられる関連ニュースはめっきり減り、時間とともに風化していくことが危惧されます。そうしたなか、いまの福島の人々の姿や声を伝える使命を持って、「とねりこ」を創刊します。今後10年、20年と続くであろう原発震災との闘いを前に、いま起きている出来事を、いまの時代を生きる私たちが、歴史の証人として記録することが大切だと考えました。

 とねりこは「いのちの木」と言われ、野球のバットの材料になるほど強く、しなやかな木です。激変する環境のなかで、多くの人々の声を聞き、伝えることで、1本の木が林になり、やがていのちの循環を支える森になるよう、スタッフ一同願っています。

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福島から発信し続けることの重要性を体現した雑誌である。そして、それをがんばりすぎず、しなやかに継続していこうという意思が見える。福島に住む地元の人間が、自ら主体的に、しかし息長く発信を続けていくこと、そしてそれを、福島の外にいる人々が息長くキャッチし続け、見守りながら、他の方々へ発信していくこと、大したことではないかもしれないが、重要なことだと思う。

創刊号のなかに、東北学を提唱してきた福島県立博物館長の赤坂憲雄氏の言葉がある。少々長いが、自分の備忘のためにも、以下に引用させていただく。


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震災のあとに学んだこと

赤坂憲雄


震災のあと、なんだか、とても多くのことを学んできた気がする。

一生分の涙はとっくに使い果たしたはずだった。でも、この間は久しぶりに、夜更け、ひとしきり声を殺し、泣いた。その前の日の午後、なにひとつ残っていない駅舎の跡に立って、ひとりの少女が語ってくれた家族の物語を思い出していたのだった。

諦めたときに、すべてが終わることも知った。それでも、ほんのまれに、落ち込むときがある。顔には出せない。そんなとき、かたわらに元気な仲間がいてくれると、助かる。どん底をやり過ごし、また、少しだけ前を向いて、歩を進めることができる。思えば、そんな仲間のほとんどは、震災のあとに出会った人たちばかりだ。

世界はすっかり変わってしまった。でも、後ろ向きになったら負ける。意地でも前を向いてみせるしかない。そして、今度はこちらが世界を変えてやるぞ、と心に決める。世界はどうやら、待っていても変わらないようだ。ならば、こちらが変わるしかない、世界が変わるために働くしかない、と思う。

それでは、なにをなすべきなのか。たとえば、弱き人々を基準として社会をデザインし直すこと。あえて経済効率に抗い、隙間や無駄をあちこちに作ること。やわらかく壊れる方法を学ぶこと。眼の前に横たわる境界の自明性を疑うこと。縮小と撤退のシナリオを、あくまで前向きに受け入れること。三十年後への想像力を鍛えながら、いま・ここに生きて在ること。そんなことを、ひとつでもふたつでも、ささやかに実践に移してみる。そこから、何かが始まるはずだ。

勝てずとも、負けない戦いを。それぞれの場所から、きちんと引き受けていきたいと思う。

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赤坂氏の著作はいろいろと読んできたが、上記はとても分かりやすい言葉で書かれている。しかも、福島の教訓から忘れてはならない姿勢を思い起こさせてくれる。

あのとき、何かが終わり、何かが変わる予感がした。政府に頼るのではなく、自分たちで生き抜いていかなければならないと心底思った。自分の子供の世代、孫の世代、その先の世代に対する想像力を求められた。

そして、あれから3年、自分たちは自ら変わろうとして動いてきたのだろうか。

福島からの発信を受けとめ、それを再発信していくということは、あのときの自分や子孫のことを思い起こし、自分から変わり、生き抜いて、少しでもましな未来を子孫へつないでいくために働き続けることを、深く自覚し、実際に行動に移していくことにほかならない。

勝てずとも、負けない戦いを引き受けていく。その覚悟を持って、動いていく。

2014年1月10日金曜日

福島でルワンダ

福島でルワンダに出会った。

震災前から福島で活動しているカンベンガ・マリールイズさんと知り合いになった。彼女は、福島に「NPO法人ルワンダの教育を考える会」を設立し、福島や日本とルワンダをつなぐ活動を通じて、ルワンダでの子供への教育機会の拡大を実践する活動を続けている。


うちの家族では、3年前に亡くなった父が留学生だったマリールイズさんをお世話していたほか、弟が国際交流の会を通じて彼女と懇意にしていた。それに加えて、叔父夫妻が今も活動のお手伝いをしているだけでなく、すでに70歳を超えた叔母が彼女のNPO法人の理事になり、1年半前にルワンダへ移住していった。

福島へ帰省中、ちょうど彼女らによるルワンダ写真展があり、のぞいてきた。そして、幸運にも、マリールイズさんご本人と会うことができた。面会をとても喜んだ彼女は、さっそく、ルワンダの私の叔母へ電話したそうだ。私もすぐに、叔母へメールを送ったところ、すぐに返信が来た。とても嬉しそうだった。

写真展では、ルワンダで子供に音楽を教える叔母の元気そうな写真が何枚も展示してあった。写真の中の叔母はとても生き生きとしていて、ルワンダの人々にいろいろとよくしてもらっている様子がうかがえた。叔母もこれまでに様々な経験を経てきているが、「もう日本へは帰らない」と言い切って1人で渡航し、ルワンダに残りの人生を捧げる覚悟なのだった。ルワンダでは、日本大使館やJICAの方々にいろいろとお世話になっている様子もうかがえた。叔母に代わって感謝の意を表する次第である。

そんなルワンダの叔母に「会いに行きたい」とメールで書いたら、「来なさい」と命令されてしまった。ルワンダは、内戦や紛争、虐殺といった過酷な経験を必死で乗り越えようと努め、その悪夢を引きずりながらも、懸命に新しい国づくりへ向かっている、アフリカでは近年最も注目される国の一つ。ルワンダほどではないのかもしれないが、かつて、インドネシアのアンボンやポソでイスラム教徒とキリスト教徒が憎しみ合い、殺し合いをした過去が重なって見える。

マリールイズさんは、東日本大震災の後も、ずっと福島に留まり、福島に寄り添いながらルワンダとつなぐ活動を続けてきた。そんなマリールイズさんと一緒になった叔母は、自分の残りの人生をルワンダの子供たちの未来づくりのお手伝いに捧げている。

そんな彼女らを見ていると、私がもやもやと頭の中で思っている活動もありだし、どんな活動でもありのような気がしてくる。大事なことは、何のために活動するか、ということなのだ。

余談だが、折しも、新年早々、NHKで故やなせたかし氏についての追悼ドキュメンタリーをみた。アンパンマンの主題歌の一節「何のために生まれて何をして生きるのか」「行け、皆の夢守るため」がなぜかじーんときた。

福島でルワンダ。世界は遠くにあるのではない。マリールイズさんと関わった人々は、ルワンダが自分の心の中に入ってくる。反対に、マリールイズさんの心の中には福島が入っている。そして、双方が双方を思い合い、対等な立場の仲間として、その輪を広げていく。フツーの人々どうしをつなげていくそんな関係が縦横無尽に広がっていけばと思う。

今年、本当にルワンダへ行って、叔母に会ってこようかな?

2014年1月5日日曜日

福島帰省2日目

福島帰省2日目。午前中に弟の車で福島の街中をドライブしたが、ビックリしたことが2点あった。第1に、旧市街に空き地が一段と増え、駐車場がさらに増えたこと。第2に、郊外は住宅建設ラッシュとなっていることだった。

福島市の人口は依然として減少傾向にあり、旧市街の虫食い現象はそれを象徴するが、その一方で、相当数の住宅が新たに建設されている。親と同居していた子供がそのまま親の家に住みたくない傾向が強いことと、原発事故の影響で避難を余儀なくされて仮設住宅に入っていた人々が住宅を購入するという傾向が強まっていることが背景にあるようだ。

午後は、既存メディアがなかなか伝えない話を独自メディアで発信する独立ジャーナリストの方にお会いして、色々とお話をうかがった。組織にとらわれない自由な立場から見た福島の現状について、様々な角度から話をうかがうことができ、大変有意義だった。

復興に伴う外部者による新たな搾取的状況の発生、官によるNPO活動への不信と官主導の事業実施へのこだわり、大学と住民との距離、などの話題が出た。その方の話からは、福島にどっぷり浸かることによる閉塞感のようなものがあるように感じたが、それは福島の現状に起因するある意味の複雑さから来るものかもしれない。

全国全ての都道府県に散らばった福島出身者の新しい地元に福島を自然に埋め込んでいく動きをつなげて、福島出身者による新たな一種のディアスポラ的ネットワークが今後の日本にとって新たな何かを作り出していくのではないか、といった希望も語り合えた。

福島にどのように取っかかりを作ることができるのか。まだ確証はないが、新しい地元を念頭に置いた複層的な地元学の展開可能性を考えることができるのではないか、という気がした。

2013年12月14日土曜日

休暇一時帰国予定

年末年始は日本へ休暇一時帰国を予定している。12月25日にスラバヤを発ち、クアラルンプール経由のAir Asiaで夜11時に羽田着。戻りは、1月13日夜に羽田を発ち、クアラルンプール経由で1月14日昼前にスラバヤ到着である。

最近、冬に日本へ帰ると、皮膚が乾燥してカサカサになったり、寒さに耐えられなくなったりして、南国仕様の体になってしまったことをつくづく感じてしまう。今年もまた寒い冬とのことで、少々心配ではある。

しかし、今回は長めの休暇を取って、じっくりとこれからのことを日本で考えてみたいと思っている。少しずつ、少しずつ、自分がこうありたいと思う方向へと向かってきてはいるが、まだ、道筋がしっかりできたという状態には至っていない。自分がこうありたいと思う方向と、生計を立てていくということがまだきっちりとクロスしていないのである。

そしてまた、自分たちで選択したとはいえ、一つの家族が日本とインドネシアで長い間離れて暮らしていることが日常となった今、それを生かしながらも、もっと柔軟な形で、家族と一緒にいる時間をもう少し増やせるような活動のしかたを考えてもいいような気がしてきている。

今回の休暇一時帰国で何らかのヒントが得られれば、2014年以降、またもっと面白い活動ができるのではないかと勝手に期待している。

もちろん、故郷・福島にも帰省する。久しぶりに、日本でまた友人・知人たちと会えることを楽しみにしている。

2013年9月22日日曜日

「日本」が人々の胃袋の中へ広がる

ジョグジャカルタの「こてこて」と「わざわざ」の話を前回書いた。そこでは、「日本」がインドネシアの若者たちに、肩肘張らずに自然にすんなりと、受け入れられている様子があった。最近の日本からの企業進出、とくに日本というものを意識した日本側からインドネシア側へのアプローチとの対比で、少し考えてみたい。

たとえば、日本からラーメンなどの飲食業の進出がジャカルタやスラバヤなどで見られるようになって久しい。そこでは、多くの場合、日本的なものを前面に出して、日本を売りにするケースがほとんどである。

基本は、日本で食べるのと同じものをインドネシアにも提供したい、という姿勢である。そして、それは日本好きであったり、物珍しさを好むインドネシアの人々に受け入れられていく。在留邦人も、日本食が恋しくなって、そうした店へ出かける。そうして、日本というものがインドネシアへ広がっていく。

一方、「こてこて」や「わざわざ」のように、日本人がほとんど関与せずに、インドネシア側のイニシアティブで、日本人が知らないところで、勝手に「日本」が広まっていく現象がある。彼らのやっていることは、日本人の我々から見れば、日本の真似事に過ぎないかもしれない。「ちょっとそれは違うんじゃないかなあ?」と首をかしげたくなるような面もある。

そうしたビジネスを行っているのは、留学や研修でかつて日本に滞在した経験のある人だったり、アニメやオタク文化に触れて日本にはまってしまった人だったり、あるいは、ちょっとビジネスをするのに「日本」を借りただけの人だったりする。

これら両者の違いは、日本をどう扱っているかである。日本から進出した企業は、日本をインドネシアの中へ持ち込み、その日本たるものを維持することでビジネスを展開させようとする。その際、最初は物珍しさから注目を集めても、すぐにインドネシア側に飽きられてしまう可能性がある。

気をつけないと、「日本のものだから素晴らしいんだ」「どうしてインドネシアの人々はそれを理解してくれないのか」という話に陥りかねない。もちろん、そして利益を上げなければならないというプレッシャーがかかる。

「こてこて」や「わざわざ」は、インドネシアの若者が、日本が好きで勝手に始めたものである。もちろん、利益を上げることが前提だが、日本礼賛!というように力が入っているわけではない。日本をそのまま伝えなければならないという使命感などない。彼らが最もなじむ形で「日本」あるいは「日本的なもの」が受け入れられていく。そこでは、容易にインドネシアやインドネシア的なものと融合していく。当然、日本的なものを求める日本人や日本通の関心の対象にはならない。

しかし、どうやら、我々の目に見えないところで、この「こてこて」「わざわざ」現象は静かに広まっている様子なのである。

昨晩、スラバヤ郊外の住宅地の細い道路を走っていたら、ワルンのような赤ちょうちんを発見。ちょっと覗いてみると、机一つだけの「ラーメン屋」だった。いかにも、インドネシアの方が試しに始めてみたスモール・ビジネスという感じで、日本人の私の眼から見て、どう見ても美味しそうなラーメン屋には見えなかった。機会があれば、今度、取材をかねて、味を試してみたいと思う。

クールジャパンなどを通じて、日本食をビジネスとする日本企業のインドネシア進出を支援することにも意味があるだろう。

それとともに、いやそれ以上に、インドネシアの人々や世界の人々の胃袋に日本食あるいは「日本食」をなじませ、広めていくこと、日本が世界の人々の胃袋から離れられなくなる(する)ことが、日本が世界のなかで生きていくに当たって、とても重要なのではないかと思える。それは、日本企業だけでできる話ではない。「こてこて」や「わざわざ」のような、現地の人々が勝手に広めてこそ、「日本」が人々の胃袋の中に根づいていくのではないか。

こうした、勝手に「日本」を広げていく動き、とくに胃袋を通じて「日本」が広がっていく動きを、我々日本人は、「本物ではない!」などと目くじらを立てずに、温かい目で見守っていきたいものである。

2013年9月18日水曜日

「こてこて」と「わざわざ」

7月に「中小企業海外展開支援プラットフォームコーディネーター」という長い名前の職務を拝命し、日本の中小企業がインドネシアへ進出する際のコンタクトポイント、あるいはすでにインドネシアへ進出した中小企業の相談窓口、のような役割を果たしている。

昨晩から出張でジョグジャカルタに来ているが、今回はそのプラットフォームがらみの仕事である。

仕事の話はちょっと置いておいて、今回、ジョグジャに来てあらためて思うのは、日本というものがジョグジャの風景の中に溶け込み始めているということである。すなわち、日本に留学したり、日本について学んだりした学生たちが、自分のフツーの感覚で、肩ひじ張ることなく、遊び感覚も兼ね備えながら、ちょっとしたビジネスなどを行なっている光景である。

最初は「こてこて」。これは、広島風と大阪風のお好み焼きを出す小さな店である。ワルン・オコノミヤキと称している。注文すると、お兄ちゃんがお好み焼きを焼いてくれる。ムスリムのお客さんを考慮して、すべてがハラル。お好み焼きのソースも、自分たちで工夫してハラルにしている。しかも、小・中・大とサイズの分かれたお好み焼きは、大でもトッピングなしで3万ルピアと手頃な値段だ。これで十分に元が取れているという。

次は「わざわざ」。「こてこて」からすぐのところに、赤いのれんをかけた屋台があった。ガジャマダ大学日本語科の学生?が始めたビジネスで、まさに屋台をイメージして始めたようだ。ご飯に鶏肉または牛肉のそぼろをかけ、お好みで目の前の春巻、チキンカツ、サテ、サラダなどをトッピングする。あれ、これってジャワでよく見かけるワルンやソトアヤム屋と同じシステムではないか。

まさに、「日本」がすんなりと入っているのだ。ジョグジャの持ついい意味での脱力感とともに。

日本とインドネシアの交流イベントを大々的にやるのもよい。でも、ジョグジャカルタの若者たちは自分たちのアイディアとセンスで、日イ友好などと力を入れることなく、楽しみながら「日本」を自然に自分たちの中に取り込んでいる。そんな動きが自然に広がっていくのがいい。日本人は、「本当の日本とは違う」などと目くじらを立てないほうがよい。

夜だったせいもあり、うっかり、写真を撮るのを忘れた。失敗。

2013年9月5日木曜日

「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」発言

インドネシアと直接関係ない話で申し訳ない。

2020年の五輪開催都市に立候補している東京。東京電力福島第一原発からの高濃度汚染水の漏洩・海洋排水の問題が世界的に注目されるなかで、当選へ向けてなりふりかまわぬ姿勢を見せた。

東京が安全であることをアピールするため、「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」とプレゼンしたと報じられている。筆者は、科学的な安全性について、客観的にみて、本当に東京が安全なのかを判断する確かな知識を持ち合わせているわけではないので、安全かどうかを問題にすることはしない。

しかし、この発言は、「福島は安全でない」と言ったに等しい。どうしても何かこの種のことを言いたいならば、「(問題となっている)東京電力福島第一原発は東京から250キロ離れており」と言うべきであった。「福島」は福島県全体なのか、他都市よりもまだ相対的に線量の高い福島市なのか。東京並みかそれ以下の線量の会津地方やいわき市周辺も含むのか。この発言からすると、「福島は安全ではない」と受けとめられることになる。

これこそが、いわゆる風評というものではないか。発言者の繊細さに欠ける用語使いで、どんなに印象が変わるか。

この発言を聞いてすぐに思い出したのは、東京の発展を電力で支えてきた福島の歴史だった。奥会津・只見川の電源開発で、巨大水力発電所が建設され、その後、浜通りの相双地区に何基もの原子力発電所が「福島」という名前の下に建設された。それを担ったのは東京電力であり、それらの場所で作られた電気はすべて東京首都圏へ送電された。福島県内の電力は、東北電力による発電所から送電されたのである。

そもそも論として、なぜ東京への電力を福島県に作ったのか。只見川電源開発は、そこに豊富な水資源があったから、という理由で容易に納得できる。

他方、浜通りの 原子力発電所は、そこにウランがあったからではなかった。東京にもっと近いところに作ればいいものを、わざわざ送電コストをかけて流す選択をした。そして、2011年3月に事故が起こって、東京から離れたところに建設した理由が眼前に現れてしまった。やっぱり、実は、最初から「危ない」と分かっていたのである。

「危ない」と言っていたのではどこにも建設できないから、過疎で出稼ぎに頼る貧しかった相双地区が注目され、人口の多い東京首都圏で何か起こるのに比べれば、影響は少ないと勝手に判断され、多額の資金供与を見返りとして、原発が建設されたのである。もしかしたらそこの人々は「騙されている」と分かっていたのかもしれない。でも、生きていかなければならなかった。東京の人たちのような豊かな生活をおくる権利もあるはず。彼らを「金の亡者」と一律に非難するのは難しい。

そして事故が起き、改めて「騙された」ことに気がついたが、それと引き替えに手に入れた自分たちのより良い生活を否定することはできない。けれども、あえて「騙される」ことを選択したことで、間接的にではあっても、事故に荷担してしまった罪悪感が人々の心の一番の奥底でうごめいていることは想像に難くない。単純に「原発反対」などと声を上げられない複雑な気持ち、しかしそれはなかなか理解してはもらえないだろう。

東京オリンピックは、そんな人々を励まし、勇気づけ、復興へ向けて前向きの気持ちにさせる機会になる、と信じて旗を振る人々がいる。たとえ、打ち上げ花火のようなはかないものだとしても、何もないよりは、一時的に気分を高揚できる機会になるかもしれない。何かそれが決定的に復興を継続的に進めていくエネルギーになるとは思えないけれども。線量を気にし、食の安全にピリピリした、日々の生活で精一杯の福島の人々にとって、東京オリンピックとはその程度の位置づけでしかない。

でも、「東京は福島から250キロ離れており、安全だ」という発言がすべてを台無しにした。東京オリンピックが福島の復興のためなんて、嘘だということが明らかになってしまった。東京は福島とは違う世界にあり、東京でオリンピックをやっても、福島の影響は何もない、ということだ。それをいうなら、東京よりも遠い、福岡や鹿児島でやったほうがいいではないか。東京だけでオリンピックをやれればよいのか。

東京首都圏の発展を支えた電力の源の多くが福島県からだったという事実、その見返りは刹那的なカネでしかなかったのか。東京は福島を見ていない。同情はしているかもしれないが、ともに歩んでいこうという姿勢はない。むしろ、東京オリンピックの実現には迷惑な存在と思っているかもしれない。

もっとも、東京オリンピック云々の話題が出たからこそ、世界中のメディアが注目するなかで、東京電力福島第一原発で今本当は何が起こっているかを、東電が騙し続けられない状況が生まれたという面もある。東京オリンピックが実現することで、東京電力福島第一原発の廃炉処理が本当に実質的に進むのならば、それはありがたいことではあるが、そのような説明は政府からも東京都からも東電からも聞こえてこない。