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2014年6月14日土曜日

マドゥラ(4):サンパンのバティック

サンパンの街なかで1泊した後、スメネップへ向かう前に、バティックの工房を訪問した。サンパン県観光局長の奥さんの工房で、ファウジル君が日頃からお世話になっている方である。

マドゥラのバティックには、バンカラン、サンパン、パムカサン、スメネップの4県ごとに異なる特徴のバティックがある。一般的に有名なのはバンカランのバティックで、これには細かい線が入る。ジャカルタなどでバティック・マドゥラとして売られているのは、多くがバンカランのバティックだそうである。


奥さんの説明によると、上の写真は、サンパンのバティックである。ここのバティックはほとんどが手書き、または手書き+ハンコ(インドネシア語で「チャップ」と呼ぶ)であり、プリント・バティックは扱っていない。


バティック・サンパンの新しいデザイン。花をあしらっている。


これは、パムカサンのバティック。なかなか斬新な色使いとデザインである。

最後に見せてくれたのは、昔のバティックで仕立てた服である。これは奥さんが自分で着るもので、大事にしているそうである。


ジャカルタなどの普通の店では、手描きのいいバティックを手に入れるのが難しくなっている。人件費の高騰で、完成まで2〜3ヵ月を要する手描きバティックの値段は以前に比べるとかなり高くなった。おそらく、根気よく手描きをする職人も年々少なくなっているのだろう。

バティックがユネスコ文化遺産に指定されて、国内では各地でバティック・ブームが起こったが、マーケットが求める安いプリント・バティックが幅を利かせるようになったのは皮肉である。ちなみに、インドネシア政府はロウケツ染めではないプリント・バティックをバティックとは認知していない。

この工房で、30年前ぐらいに作られた手描きバティックに出会い、素敵だったので購入してしまった。その値段が他のバティックとほとんど変わらないのが不思議だった。安く買えてしまったのである。インドネシアの古いバティックを求めて歩きまわる業者もいる。古くて価値のあるものは、それなりの価格をつけて売るほうがよいのではないか、と、安く買ってしまった後で、奥さんに話した。ちょっと罪悪感。

2014年6月8日日曜日

マドゥラ(3):サンパンの英雄王様カフェ


5月30日夕方、ファウジル君の自宅を出て、サンパンの町へ。町中で車を降り、坂道を登っていくと、Gua Lebarと呼ばれる、洞窟のある窪地をぐるりと囲む場所へ出た。ここからサンパンの町が一望できる。

Gua Lebarに着いて間もなく、夕暮れとなった。赤く染まってゆく西の空を眺めていると、夕暮時の礼拝を呼びかけるモスクのアザーンが聞こえてくる。いくつかのモスクを背景にしたサンパンの町のシルエットが美しく映えている。


一緒に来たファウジル君もリオ君も、サンパン出身でありながら、ここで夕暮れを見るのは初めてだという。それはそうだ。彼らはいつも、その頃にモスクで夕暮れの礼拝に務めているのだから。

Gua Lebarからちょっと歩くと、木造の小屋が見えてきた。そこにカフェを建設中であった。場所としてはなかなかいい場所だ。カフェを運営するグループの代表であるマフルス氏と出会えたのも、今回のマドゥラでの収穫の一つだった。

英雄王様カフェ(Kafe Raja Pahlawan)。日本語にするとちょっと陳腐な名前のカフェだが、周りに様々な果物の木を植えて、自然と調和したナチュラルなカフェを目指すという。

「売りは何か」と聞くと、「ココナッツジュースにしたい。Gua Lebarを訪れる人々が常に求めているから」という答え。でもココナッツは、遠く離れたスメネップから運んでくるという。まあ、それでもいいのだが、「周りに植えた木になる果物を活かすのもいいのではないか」と提案したら、考えてみるそうである。

マフルス氏の生い立ちが興味深い。彼は小学校を卒業していない。両親が離婚し、自分自身も荒れるなかで、イスラム寄宿学校へ入れられた。そこでは相当のワルだったようだが、何とか卒業し、大工仕事などを見よう見まねで覚えて、身につけてきた。ヒトに指図されるのが嫌いな性格だと言っていた。

話を聞きながら、ファウジル君やリオ君は、自分の師匠であり、インドネシア全国の村々でミニ水力発電を普及させる活動をしているトゥリ・ムンプニさんの素晴らしさや彼女から色々学ぶことを一生懸命勧めた。

すると、マフルス氏は突然、「実はここの仲間にも話していなかったことなのだが・・・」と言って、かつて、マドゥラ島のある電気のない村で、住民と一緒になってミニ水力発電を作ったことがあると話し始めた。

ファウジル君とリオ君に私は言った。トゥリ・ムンプニさんの活動は素晴らしい。しかし、インドネシアには、彼女以外にも、各地で名も知れず地道に住民のために何かをしている人々、何人もの「トゥリ・ムンプニ」さんがいるはずだ。マフルス氏もそんな一人。そうした人々を探し出し、彼や彼女の活動を尊び、同じような活動を行っている人どうしを横へつなげて、活動を広めていくことが大切ではないか、と。

彼の生き方そのものが、同じように学校教育のレールから外れてしまったり、報われない境遇のなかで育った若者たちに、彼らの人生への何らかのヒントを与えてくれるのではないか。このカフェをそんな若者たちのための場として活用することも考えたらいいのではないか。そんなこともマフルス氏に話してみた。

また必ず、このカフェを訪れることをマフルス氏に約束した。

2014年6月6日金曜日

マドゥラ(2):ラブハン村の朝

5月30日は、まず朝起きて、ラブハン村の朝市を覗きに行った。朝市と言っても、村の海岸沿いの道路沿いに商人たちが店を広げている、という至ってシンプルなものである。




全長わずか200メートル程度。有力キアイの息子であるファウジル君は、子供の頃から商人たちみんなが知っている。歩いているとあちこちから彼に声がかかる。


柿が売られていた。食べてみると甘い。でも、甘柿ではない様子。実のまわりが白いのが気になる。


料理の素がこんな形で売られている。街なかのスーパーで売られているものの中身だけ、簡易パッケージで売っているような感じだ。


この材料にヤシ砂糖を入れて混ぜると下のようになる。それぞれの素材の食感が異なって、なかなか美味しい。お菓子の名前を聞くのを忘れたが、マドゥラでは昔から普通に食べられているお菓子ということだった。


このお菓子を売っていたおばさん。


次は、この村で30年以上クルプック(魚せんべい)を売っているおじさん。クルプックは、スラバヤの南のシドアルジョから仕入れている。「日本語でなんというのか?」と聞かれたので教えたら、「センベーイ、センベーイ」と言って売り歩き始めた。


朝市を見て回った後、今度は、マドゥラサに呼ばれた。マドゥラサは、イスラム教をメインとする宗教学校で、小学校相当から高校相当まであり、インドネシアでは、教育文化省ではなく、宗教省が管轄する。マドゥラサでは、中学校相当の生徒を相手に、日本の話をしてくれと頼まれた。



生徒たちにまず、「マドゥラの誇るものはなにか」と尋ねた。きれいな海岸、スラマドゥ橋、美味しい料理、闘牛(カラパン・サピ)などが出てきた。でも、男子生徒は「経験を積むため」マドゥラの外へ出稼ぎに行きたいと言い、女子生徒は「卒業したら結婚して家庭に入る」というのが大半だった。

先生方とも記念写真。


イスラム教に基づいた宗教学校ではあるが、生徒たちはごく普通の子どもたちだった。このマドゥラサは、ファウジル君の叔父さんが校長を務め、ファウジル君の父親らキアイたちが所有・運営している。

見た目はのどかなラブハン村だが、開発の波が押し寄せてくる気配がある。この村を含む広範な場所に、コンテナ港や大規模な工業団地を作るという話が出ており、すでに、多くのキアイたちが用地提供になびいている。ファウジル君の父親曰く、外部からNGOと称するマフィアどもがやってきて、開発に反対する運動を始めているということである。キアイたちには、真に村人のことを思って開発反対を唱えているというよりも、用地価格のつり上げを狙った動きと捉えられているようだった。

キアイたちがまだしっかりと「統治」しているラブハン村。これからどう変わっていくのだろうか。ここではまだ、開発は「外からやってくるもの」と捉えられている。

2014年6月5日木曜日

マドゥラ(1):橋をわたると別世界

5月29〜31日は、マドゥラ島へ行ってきた。マドゥラ島はスラバヤの目と鼻の先にある、東西に長く横たわる島である。

2009年、スラバヤとマドゥラ島の間に橋「スラマドゥ」(スラバヤの「スラ」とマドゥラの「マドゥ」の合成語)がかかり、スラバヤから車で容易に行けるようになった。逆に言えば、マドゥラ島から人々が容易にスラバヤへ来れるようになったことも意味する。

今回は、社会起業家である友人のトゥリ・ムンプニさんからの勧めで、彼女が目をかけている若者たちの一人がマドゥラ島で地域おこしのような活動を始めたので是非見に行ってほしい、と言われたのがきっかけである。

トゥリ・ムンプニさんは、山間部などの僻地に住民参加型でミニ水力発電をつくり、そこで起こした余剰電力を国営電力会社(PLN)へ売電するというビジネス・モデルをインドネシア全土へ広げる活動を進めている。インドネシアだけでなく、世界的にも注目される社会起業家なのだが、会えばフツーの素朴な女性、しかし世の中の不正や政治の腐敗に対しては常に厳しい見解をいつも投げてくる。本当に、議論していて色々なヒントを得ることができる得難い友人である。

5月29日の夕方、スラバヤ東部のギャラクシーモールで待ち合わせて、彼女の「教え子」のリオ君とその友人たちと一緒にマドゥラ島へ渡った。目指すのは、トゥリ・ムンプニさんの別の「教え子」であるファウジル君の実家。ファウジル君とは、以前、東ジャワ州主催のセミナーで講演した際に、出席者の一人だった彼と知り合い、そのときに、トゥリ・ムンプニさんから彼が私に会うように言われていたことを知った。リオ君もファウジル君もスラバヤの国立大学生である。

ファウジル君の実家は、海に面したサンパン県スレセ郡ラブハン村にあった。彼の父親は地元で尊敬を集めるキアイ(イスラム教の指導者)の一人で、ファウジル君はその跡取り息子として村人から一目置かれていた。セミナーであったときには、ちょっと軽い普通の若者にしか見えなかったのだが、田舎に帰ると、かなりの存在感を示していた。すれ違う人が皆、ファウジル君にうやうやしく挨拶するのである。

てっきり、ちょっと彼の実家に寄ってからサンパンの町へ行って泊まるのかと思ったら、今晩は彼の家に泊まるのだという。そして、ちょうど、ムハマッド昇天祭(イスロー)で村人のほぼ全員がモスクに集まるイベントが夜あるので、それに出ることになった。

まずは、ファウジル君の実家で鶏肉のサテ(Sate Ayam)の簡単な夕食。


その後、イスローの会場となるモスクへ向かった。そこでまた食事。床に座って食べていると、次から次へと、白装束をまとったキアイたちがやってくる。そして、「インドネシア語は話せるのか?」「どこに住んでいるんだ?」「家族は一緒なのか?」などなど、初めて訪問した場所での毎度おなじみの質問が続く。


ひとしきり食事と話をした後、いよいよモスクへ。ファウジル君の父親(キアイ)はこのモスクを運営する幹部の一人なのだが、彼の先導で進む。モスクの中へ入る前に靴を脱ぎ、そのまま、モスクの一番奥の幹部席まで連れて行かれた。そして、異教徒なのにいいのか、と聞くと、「いいんだ、いいんだ」と、幹部席に座っていることを求められた。これは客として最高の待遇のようだ。

しばらくして、外は、雷と風を伴った豪雨となった。モスクの周りに集まった村人ら約3000人の一部がモスクの中へ移ってきた。モスクの外で説教していたキアイも中へ移り、マイクの調子をチェックした後、再び説教を始めた。

1時間ぐらい説教が続いた後、今度は、別のキアイが説教を始めた。最初のキアイよりは説教が下手だったが、彼もまた、1時間以上、ときには歌も交えながら、延々と説教を続けた。

イスローの集会が行われたモスク
(翌日の5月30日朝に撮影)

このキアイ、モスクに入る前に、一緒に食事をしていたのだが、そのとき、ふと見ると、彼は白装束をたくし上げ、サロン(腰布)を直していたのだが、まるでボクシングのチャンピオンベルトと見紛うような大きなベルトでサロンを止めているのをたまたま見てしまった。サロンはクルクルっと腰の位置で巻くものだと思っていたが、ベルトで止めるというのもありなのだと思った。その写真を撮らなかったことをちょっと後悔している。

彼らキアイの説教は、時々インドネシア語も交じるが、もちろん、ほとんどはマドゥラ語である。筆者はマドゥラ語が全くわからない。しかし、キアイたちと一緒に幹部席に座らされているため、スマホや携帯などをいじることなく、一生懸命に説教を聞いている態度を見せるのが礼儀だと思い、そう努めたが、さすがに限界だった。説教が早く終わることを願っていた。

イスローのイベントはようやく午後11時過ぎに終わった。雨も止んでいたが、人々が去った後には、大量のゴミが残されていた。自分の靴を探した。私以外は皆、サンダルなので、見つけるのは容易だった。が、靴は残飯を含むゴミまみれになって、打ち捨てられたようになっていた。もちろん、雨でビショビショ。ゴミをはらい、中に水の溜まった靴を履いて、ファウジル君の実家へ戻った。

それにしても、モスクのなかで白装束の集団と数時間一緒に過ごすという経験は、なかなか得がたいものだった。キアイは、予想以上に、地元の人々から尊敬を集め、キアイの息子であるファウジル君への人々の振る舞いも、普通の人へのそれよりも敬意を持った接し方だった。

ファウジル君の父親はキアイだが、1970年代から1999年までずっと開発統一党(PPP)の県支部長を務めていた元政治家でもあった。村人たちを動員して、サンパン県で焼き討ちをするなど騒乱を起こしたこともあるという。筆者自身はちょっと怖くなり、先般のサンパン県でのシーア派住民への迫害に加担したのかどうか、聞くことができなかった。

「キアイになるためにはどうしたらいいのか。何か資格認定のようなものがあるのか」と彼に尋ねると、「そんなものはない。皆がキアイ、キアイ、と言っているとキアイになるんだ」という答えだった。そんなものなんだろう。でも、長年にわたって村で信望を集め、その存在自体がキアイとして崇められるレベルと自然に認知されるのだろう。

もちろん、キアイの指示通りに、村人は動くのだ。だから、選挙では皆、キアイを自陣営支持のためにどうおさえるかが重要になる。今回の大統領選挙では、プラボウォ=ハッタ組とジョコウィ=カラ組のどちらを支持するか、キアイどうしでまだ決めていないが、いずれ決めることになるだろう、ということであった。

このラブハン村は、スラバヤからわずか1時間半だが、キアイたちが支配し、それに村人たちが従う、スラバヤとは別世界を形成していた。これもまた、インドネシアなのである。

してみると、スラバヤで大学へ通うファウジル君は、この大きく異なる二つの世界を行き来しながら生きている、ということになる。なんとなく、素朴に不思議な感じがした。

2014年4月11日金曜日

スラバヤ観光地図2014完成!

「スラバヤについて興味はあるけど、どこに何があるかよく分からないんだよね」という声を時々聞く。日本語で書かれた観光ガイド地図のようなものがあればいいのになあ、と思っていたら・・・。実は、それがあった。


日本語で書かれた「スラバヤ観光地図2014」。作ったのは、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の大学3年生。同学科では、日本語教育の一環として、この地図を作っている。次も、新3年生がこの地図の改訂版を作る、とのことだ。

一見したが、意外によく出来ている。施設の説明などでは、住所、電話番号、営業時間も書かれている。筆者がこれまでさんざん見たことのある地方政府の日本語観光パンフレットよりもはるかに出来がよい。

もちろん、最新情報に基づいて、訂正すべき箇所がないわけではない。それは指摘して訂正していく必要がある。でも、スラバヤについて日本語で書かれた地図はおそらくこれが最初ではないだろうか。

筆者としては、この地図を電子データ化して、少なくともPDF化して、タブレット端末でも見られるようにするとよいと思った。そうすれば、スラバヤを訪れる人たちが前もってダウンロードして使えるようになる。

さて、地図を作ったら、その次はどうするのか。そう、もちろん、地図を使って、スラバヤの街を歩くのである。その際、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科の学生たちが日本人の方々をガイドする用意がある、とのことである。できれば、古い建物をめぐるコース、地元の市場の探検コース、宗教寺院をまわるコース、食べ歩きコース、などのコースを作って、この地図を片手に街歩きできるといいなと思う。

この地図を入手されたい方、大学の学生たちと一緒にスラバヤの街歩きをされたい方は、国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科までご連絡を。もちろん日本語OKである。

 国立アイルランガ大学人文学部日本研究学科
 Tel: +62-31-5035676, Fax: +62-31-503-5808
 Email: japanologyunair@yahoo.com
 担当: 清水千恵さん(JICA青年海外協力隊員)

2014年4月1日火曜日

スラバヤを「桜」の街に

日本は今、東京を始め各地で桜が満開になっているようだが、インドネシア人の知人たちの間で、なんとスラバヤの「桜」が話題になっている。

雨季が始まる頃に咲く、スラバヤの「桜」。白、ピンク、黄色の花が咲く。花が咲き終わってから葉っぱが出てくるため、「桜」と同じだー、と言われているのである。

インドネシアの週刊誌『テンポ』の以下の写真ページを参照いただきたい。

 Indahnya 'Bunga Sakura' di Surabaya

以下の日本語ウェブサイトでも、スラバヤの「桜」のことが取り上げられている。

 【インドネシアで桜の木?】スラバヤに咲き誇る「桜」の美しさ

このスラバヤの「桜」、実は桜ではない。桜はバラ科サクラ亜科サクラ属で学名がPrunus, Cerasusであるのに対して、スラバヤの「桜」はタベブイアと呼ばれ、ノウゼンカズラ科タベブイア属の花を咲かせる樹木である。

スラバヤは緑の多い街である。よくみると、ただ単に緑が植えられているのではなく、花の咲く樹木が街路樹に植えられ、また、道路に面した公園や花壇には、様々な花が計算された配置に基づいて植えられていることが分かる。

そんな街路樹として、主要な通りに植えられているのが、このスラバヤの「桜」である。スラバヤ市のリスマ市長は「桜を愛でるなら、日本に行かずとも、スラバヤへ来ればいい」と言いながら、積極的にタベブイアを植えてきた。

本物の日本からの桜でないことを残念がる方もいるかもしれない。しかし、日本の桜の美しさをよく知っているからこそ、スラバヤにもそんな「桜」をたくさん咲かせてみたい、「桜」並木のある街にしたい、とリスマ市長は思ったのだろう。

スラバヤ市は、昔のゴミ最終処分場跡を公園化し、そこに「桜」を始めとして様々な花を植える計画を進めている。その計画に対して、国営BNI銀行が30億ルピア(約2700万円)を寄付すると申し出た。以下がその記事である。

 BNI Kucurkan 3 Miliar untuk Taman Sakura Surabaya

リスマ市長は、スラバヤを「桜」の咲き誇る街にしたいのだ。街としての美観+潤いのある街にしたいのである。やはりこの市長は只者ではない。

世界中の市長を評価する『シティメイヤーズ』サイトは、リスマ市長を2014年2月の「メイヤー・オブ・ザ・マンス」に選んだ(英文記事はこちらから)。

今年も日本で花見ができなかった。でも、スラバヤが「桜」の咲き誇る街を目指すという話を聞いて、なんだかとっても嬉しくなった。

スラバヤ生活も4月1日から2年目に入った。この街がどんどん面白くなってきた。

スラバヤの街なかに咲く花の写真を少しずつ撮り始めた。「桜」はまだだが、花の話題にしては殺風景なので、花の写真をひとつ載せておく。


2014年3月31日月曜日

東ジャワ州の日本語人材を活用せよ

先ごろ、日本の大学へのインドネシア人留学生を選抜する文部科学省の国費留学生試験が実施され、1次・2次の合格者が決まったようである。

複数の人から聞いたところによると、インドネシア国内で合格者が最も多かったのは、東ジャワ州マラン市にある国立ブラウィジャヤ大学で、8人が合格したという。この8人という数字、1校あたりの合格者としてはかなりの合格率ではないだろうか。もしかすると、世界的に見ても、最も多い合格者だったかもしれない。

そのほか、東ジャワ州スラバヤ市にある国立アイルランガ大学から3人、日本語教師養成コースを持つスラバヤ国立大学からも2人が合格、そのほか同じスラバヤ市内の私立ストモ博士大学からも合格者が出た可能性がある。

一方、西ジャワ州デポック市にある国立インドネシア大学からの合格者は1人、ジョグジャカルタ特別州の国立ガジャマダ大学からは合格者がいなかった様子である。

すなわち、今回の国費留学生試験の合格者の大半は東ジャワ州から出た、ということになりそうである。

国立ブラウィジャヤ大学の日本語科では、大学学部卒業までに日本語能力試験のN2に合格することを目標に、日本人のI先生を筆頭に、N1を持つインドネシア人の先生たちが懸命に日本語を教えている。

昨年5月、筆者は、国立ブラウィジャヤ大学で「インドネシアの日系企業と日本の企業文化」と題して特別講義をしたことがあったが、約200人以上の学生が集まり、質疑応答に1時間以上を費やすほど、学生たちは熱心だったのが印象に残っている(下写真)。そのときに、「N2をとれれば日系企業に就職できるだろう」という話をした際に、がぜん盛り上がったのを覚えている。



私の知り合いの方は、国立ブラウィジャヤ大学の日本語科の優秀な学生たちを活用し、スカイプを使ったインドネシア語学習プログラムを試みている。興味のある方は、以下のサイトにアクセスして詳細を見て欲しい。

 日本インドネシア語学院

国立アイルランガ大学は、日本研究科であって必ずしも日本語科ではないが、学生たちが熱心で、すでにN2を取ってしまった者もいるため、先生たちの目が覚めた。毎週、時間を決めて、先生方が自主的に日本語能力を高めるための勉強会を行い、N1合格を目指すということである。

これまで、日本語人材といえば、日本研究センターを持つ国立インドネシア大学や国立ガジャマダ大学などの出身者に定評があるとされてきた。しかし、国費留学生試験の結果だけから見れば、ジャカルタ周辺ではまだあまり知られていない、東ジャワ州の大学が従来の有名大学を凌駕し始めている。

もちろん、東ジャワ州における日本語学習者の裾野も着実に広がっているし、自分の日本語能力を高めるために、日本人の方と接する機会を持ちたいと思っている学習者は相当な数で存在する。

今年は、スラバヤ市でも、ジャカルタ・ジャパン祭りのような、ジャパン祭りをやってみようではないかという意見が出ている。当地の日本語学習者を巻き込んで、むしろ、インドネシア側の意向を取り込んでいきながら、面白いイベントが出来ないものかと思っている。機会があれば、私なりの色々なアイディアを出してみたいし、各大学の関係者と話し合ってみたい。

ジャカルタ周辺で日本語人材の確保に努めていらっしゃる方は、この機会に、東ジャワ州の国立ブラウィジャヤ大学や国立アイルランガ大学などの関係者に、どんな様子なのか、聞いてみてはいかがだろうか。東ジャワ州には、意外に優秀な人材が留まっているかもしれない。そして、チャンスが有れば、彼らはジャカルタ周辺で働くことも厭わないことだろう。

いや、いっそのこと、投資環境が悪化してしまったジャカルタから、東ジャワへの企業移転またはビジネス機会の拡大を図ってみてはどうだろうか。ジャカルタ周辺と比べてもそこそこのレベルの日本語人材を活用することができるはずである。

2014年3月30日日曜日

スラバヤ空港から空港バスに乗ると・・・

昨日(3月29日)、知人をスラバヤ・ジュアンダ空港第2ターミナルまで送った後、空港バスに乗ってみることにした。

空港バスは、第2ターミナルを出て、すぐ目の前に停まっている。30人乗り程度の中型バスである。料金は2万ルピア、エアコンが効いている。しかし、大きな荷物を収納するスペースはない。



行き先は、スラバヤの南手前、シドアルジョにあるプラバヤ(Purabaya)バスターミナル。スラバヤ市内まではダイレクトに行かないのだ。途中、若干渋滞したが、約30分でプラバヤ・バスターミナルに到着した。


到着したところは、ジョグジャカルタやスマランなどへのバスが出る長距離バス乗り場だった。ジョグジャカルタ行きのエアコン付き普通バスが次々に出て行く。


そこから、飲食店が並ぶ建物の中を通ってまっすぐ行く。行先別に乗り場への指示板が出ていてわかりやすいが、「どこへ行くんだ?」と、客引きのおっちゃんたちが群がってくる。客をバス乗り場まで連れてくると、そのバス会社からコミッションをもらえるのである。自分で乗り場がわからなくても、彼らが案内してくれるので、たしかにラクはラクなのだが。


途中には、ジャカルタやバリへ向かうエアコン付き有名バス会社のチケット購入スタンドが立ち並んでいる。すでに出払った後と見え、ほとんどのスタンドが閉まっていた。



これらを通り抜けて、スラバヤ市内へ向かうバス乗り場へ出る。ここでも、行き先別にバスが並んでいるが、行き先を見ただけでは、どのバスに乗ればよいのか、検討がつかない。エアコン付きのバスは数系統しかない。


筆者の自宅近くまで行くバスはなさそうなので、途中のディポネゴロ通りを通るバスに乗った。エアコンなしのボロボロのバスで、料金は5000ルピア。渋滞があったため、スラバヤ動物園を越えてディポネゴロ通りまで45分近くかかった。

ディポネゴロ通りでバスを下り、結局タクシーで自宅へ。結局、空港から自宅まで、しめて5万ルピア程度で済んだ。

結論としては、空港バスでスラバヤ市内へ向かうのはお勧めできない。荷物があったらなおさらである。

空港バス自体がスラバヤ市内へ入らないことが問題であるだけでなく、客引きのおっちゃんや怪しげな人々の行き交うプラバヤ・バスターミナルを歩くのは、インドネシアをバックパッカーとして旅するような人以外にはちょっとヘビーである。

空港から10万ルピア払っても、空港タクシーを利用するほうがずっとラクである。

空港タクシーのカウンターは、第2ターミナルの出口のすぐ左横にある。カウンターの右隣には、タクシーチケットの自動券売機が置かれている。



ジャカルタもマカッサルも、空港バスはちゃんと市内まで運行しているのに、スラバヤはそうなっていない。もっとも、時刻表はなく、人数が揃ったら出発するという点では、トランスジャカルタなど一部を除き、全国どこのバスでも同じである。

2014年3月21日金曜日

スラバヤ・ジュアンダ国際空港にて

昨晩(3/20)、キャセイ航空で東京から香港経由でスラバヤへ戻った。到着したのは、スラバヤ・ジュアンダ国際空港第2ターミナル。昔の空港をリノベーションして、新空港としたものである。

今回は、国際線到着では初めての利用になる。イミグレは空いていて、すぐ自分の番に。ところが、「別室へ行け」と言われる。何か問題があったのか。

別室にはいやな思い出がある。インドネシアへ初めて入国した1985年8月。インドネシアがビザなしで入国できるようになったはずなのだが、情報がはっきりしない。オドオドしながら、パスポートを手に並んでいたら、係員が「こっちへ来い」と別室に連れて行かれた。椅子に腰掛けると、係員が「ドラール、ドラール」という。最初は何を言っているのか分からなかったが、インドネシア語でドルと発音しているのだった。当時、インドネシア語がまだできなかったので、「ノーノー」というと、私に財布を出せと命じる。恐る恐る財布を出すと、財布の中のシンガポールで換金してきたルピアの束から1万ルピアを勝手に抜き出し、「オッケー」といって入国スタンプを押して、開放された。

それが、私の最初のインドネシアだった。聞かされていたとおり、なんて汚い国だとそのときは思った。出迎えに来ていた私のインドネシア語の先生が、彼の家のある西ジャワ州チマヒに着くまでずっと謝っていた。その後の、彼のカンポンでの様々な楽しい思い出がなかったら、私はインドネシアが大嫌いになっていたことだろう。

今回も、そのことが頭をよぎった。が、よく聞いてみると、外国人居住者用の出入国スタンプがイミグレカウンターにないという。あり得ないと思った。またダマされて金銭を要求されるのか。

別室の前へ行っても警戒は解かなかった。係員が私のパスポートを持って中に入り、しばらくすると、出てきた。入国スタンプが押されていた。

その後、荷物を受け取り、税関へ。ジャカルタでは手荷物だけをX線に通すのだが、なぜかスラバヤのここでは、すべての荷物を通すのだった。

空港に到着し、税関を抜けて外に出るまで、わずか20分。空いているということもあるが、かなり早かった。外に出る手前にタクシーカウンターがあり、そこでチケットを買って、タクシー乗り場へ。

新車のタクシーは匂いがきつく、運転も荒かったので、久々に酔いそうになった。

ともあれ、スラバヤの自宅に無事、夜9時すぎに到着。寝る前に短い原稿を1本書こうと思ったが、やはり睡魔には勝てず、今朝、朝一で書き上げた。


2014年3月2日日曜日

マラン市のゴミ銀行(連絡先追加)

3月1日、たまたま国際会議でスラバヤを訪れていた、前の職場の後輩研究者にお願いして、マランへのフィールド・トリップに同行させてもらった。彼はバンドン工科大学のエンリ教授からの誘いで、マラン市のゴミ銀行(Bank Sampah Malang: BSM)を見学に行くことになっていた。

マラン市のゴミ銀行の話は、2013年11月30日のジャワ・ポス・グループによる「地方自治賞」受賞式の際に、経済発展部門でマラン市が最優秀賞を取った際の受賞理由の一つに挙げられていた。いずれは見に行きたいと思っていたので、今回はまたとないチャンスと思ったのである。


マラン市のゴミ銀行は2011年に設立されたが、市民からはゴミ処理場を勘違いされて、最初は設立反対の声が多かった。市内に適当な場所が見つからず、結局、市営墓地の管理事務所に設立することとした。この管理事務所は、以前、オランダ植民地時代には遺体安置所だったということだが、ここを改修して、事務所として使うことになった。


ゴミ銀行は70種類のゴミに分別し、それをいくらで買い取るかの価格表が用意されている。ゴミ銀行の利用者は、ゴミ銀行に直接ゴミを持ち込むこともできるようだが、一般的には、ゴミ銀行の職員が出向いた際、そこへゴミを持ってくることになる。ゴミは、できれば予め、70種類のゴミ分別表に基づいて分別したうえで持参し、そこでゴミ銀行員の係員が帳簿をつける。そこでの記録に基づいて、各預金者のゴミ預金通帳に記載が行われ、「どんなゴミをどれだけ持ち込んだことでいくらお金に代わったか」が一覧表になって示される。


このゴミ銀行の預金を使って、コメや食用油などスンバコと呼ばれる生活必需品を購入したり、電気料金を支払ったりすることができる。「スンバコを買って、ゴミで支払いましょう」と書かれている。


一般には、地域ごとに預金者個人をひとまとめにしたグループが作られ、預金者個人の通帳に加えて、グループ全体の通帳も作られる。グループ全体の通帳に記載される額は、各預金者個人の通帳に記載された額の合計額になる。1グループは20人以上の預金者で構成される。

現時点で、320グループ、175の学校、グループに属さない400人、30の組織がゴミ銀行の顧客となっている。

ゴミ銀行は、預金者から集めたゴミを業者や工場などへ売って利益を得る。昨年の年間売上額は2億ルピア、純利益は2000万ルピア程度出ている。

ゴミ銀行では、ゴミを使ったバイオガスの実験も試みている。


また、ミミズを増やす試みもしている。


ゴミ銀行の裏は、様々なゴミの分別場となっていた。





ゴミ銀行の連絡先は以下のとおり。

Bank Sampah Malang (BSM)
Jl. S. Supriyadi No. 38A, Malang
Tel. 0341-341618, Fax. 0341-369377
Email: banksampahmalang@yahoo.com
Contact Person: Bapak Rahmat Hidayat, ST (Direktur BSM),
0812-3521-4545, 0341-7779912.

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今回は、ゴミ銀行以外に、住民主体で運営しているゴミ分別場や、環境に配慮したゴミ処理場も見学した。




住民主体で運営しているゴミ分別場はムルヨアグン村にあり、住民による1日30立方メートルものゴミのブランタス川への投棄が問題となり、2008年に村長が川へのゴミ投棄を禁止した。そこでの対策ということで、村にゴミ分別場を作り、無機ゴミの食べかすを家畜の餌に、それ以外は処理して業者へ売るほか、有機ゴミをコンポストにするなどの対策をとった。毎朝、ウジ虫を収集して養魚池にまくことで、ハエの発生を95%減少させたという。

政府からは、まず畜産局からヤギが11頭与えられ、糞を堆肥作りに活用する。乳は従業員たちで飲む。水産局からナマズの稚魚が提供され、残飯などを与えて、ナマズを養殖する(写真下)。


このゴミ分別場は、現在、7600世帯からのゴミを1日64立方メートル処理しているが、処理能力に限界があるため、規模の拡大は考えていない。すべての作業は1日で終わらせる。77人が雇用されている。

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最後に訪れたのは、マラン県のタランアグン・ゴミ処理場で、ここは観光も兼ねたゴミ活用の学習施設と銘打っている。

実際、ゴミから発生したメタンガスをコンロや電灯などに使っている。空き缶を使ってブロックで仕切った簡易なコンロ「ノナク」(私の彼女、という意味)は面白かった。



ゴミから出た汚水を植物用にまいたりもしており、その成果なのか、発育が良いものがあるということだった。

ゴミ処理場へ向かう道には、様々な植物が植えられ、緑の多い、きれいな公園のようである。前の職場での後輩の研究者は、様々なゴミ処分場を訪問しているが、こんなきれいなところは初めてだと驚いていた。




ゴミ処理場にパイプが引かれ、そこを通じてメタンガスが実験棟へ送られている。



まだまだ改善・改良を余地はあるだろう。もしかしたら、日本の技術を組み合わせると、もっと面白いことが起こるかもしれない。

ともあれ、東ジャワ州には、こうしたゴミを生かす試みが様々に行われている現場がある。インドネシア発の様々な試みをじっくりと注目していきたい。