先週から母校の先生方をインドネシア大学とガジャマダ大学へお連れし、アポのアレンジのほかに、ボロブドゥールへの案内などをこなした後、3月11日昼12時過ぎに、鉄道でスラバヤへ戻った。
静かな場所で一人、黙祷したかった。そこで、普段なら誰も客のいない、あるカフェで昼食をとる前に、黙祷したかった。
あいにく、普段とは違い、その場所には大勢の客が来ていた。彼らのざわめきから少し離れた席に着席し、その時を待つ。
頼んでいたアイスティーが運ばれてきたその後、西インドネシア時間午後12時46分、静かに手を合わせた。亡くなられた方々のご冥福と、生かされている私たちがこれから創っていく未来を、祈った。
この3年間、自分はどれだけ真剣に生きてきただろうか。どれだけ、新しい未来を創るために動いてきただろうか。そして、またあのいつもの問いが頭をよぎる。自分はインドネシアにいて本当によいのだろうか、と。
復興、再生、いや新生なのか。コミュニティという言葉の持つ心地よさと危うさ。生きていくための理想と妥協。賛成か反対かしか聞こえてこない意見の二者択一化。自分で考える力の衰退。
希望なんて、簡単に生まれるものではないことぐらい分かっている。それでも、誰かが希望のタネを様々な形で撒き続けなけれなばらない。
3年前、私たちが諦めなければならなかったものは何だったのか。私たちがしなければならなかった覚悟とは何だったのか。
諦めなければならなかったのは、たとえば、亡くなった家族や友人、失われた家や町や故郷。しなければならなかった覚悟は、たとえば、亡くなった方々に恥じない人生を歩んでいくこと、もっと素晴らしい家や町や故郷を作り直していくこと、原発に依存しない未来を作っていくこと。
だとするならば、これからの人生は本気の本物の人生を歩んでいかなければならない。本物の家や町や故郷を作り直していかなければならない。
諦めろ。覚悟しろ。本物をつくれ。
私が地元学を学んだ水俣の吉本哲郎氏が福島へ送ったメッセージである。
私たちは本物をつくってきたのだろうか。作ろうとしてきたのだろうか。本物はそこにいる者の中からしか生まれない。よそ者が何かをつくっても、そこにいる者の魂が込められなければ、本物にはならない。
今でも、復興や再生や新生へ向けての様々な活動が取り組まれている。大事なことは、それが本物であること。もし、そうでなければ、それを本物にしていくことである。
このことを、改めて、肝に銘じている。
2014年3月11日火曜日
2014年3月2日日曜日
マラン市のゴミ銀行(連絡先追加)
3月1日、たまたま国際会議でスラバヤを訪れていた、前の職場の後輩研究者にお願いして、マランへのフィールド・トリップに同行させてもらった。彼はバンドン工科大学のエンリ教授からの誘いで、マラン市のゴミ銀行(Bank Sampah Malang: BSM)を見学に行くことになっていた。
マラン市のゴミ銀行の話は、2013年11月30日のジャワ・ポス・グループによる「地方自治賞」受賞式の際に、経済発展部門でマラン市が最優秀賞を取った際の受賞理由の一つに挙げられていた。いずれは見に行きたいと思っていたので、今回はまたとないチャンスと思ったのである。
マラン市のゴミ銀行は2011年に設立されたが、市民からはゴミ処理場を勘違いされて、最初は設立反対の声が多かった。市内に適当な場所が見つからず、結局、市営墓地の管理事務所に設立することとした。この管理事務所は、以前、オランダ植民地時代には遺体安置所だったということだが、ここを改修して、事務所として使うことになった。
ゴミ銀行は70種類のゴミに分別し、それをいくらで買い取るかの価格表が用意されている。ゴミ銀行の利用者は、ゴミ銀行に直接ゴミを持ち込むこともできるようだが、一般的には、ゴミ銀行の職員が出向いた際、そこへゴミを持ってくることになる。ゴミは、できれば予め、70種類のゴミ分別表に基づいて分別したうえで持参し、そこでゴミ銀行員の係員が帳簿をつける。そこでの記録に基づいて、各預金者のゴミ預金通帳に記載が行われ、「どんなゴミをどれだけ持ち込んだことでいくらお金に代わったか」が一覧表になって示される。
このゴミ銀行の預金を使って、コメや食用油などスンバコと呼ばれる生活必需品を購入したり、電気料金を支払ったりすることができる。「スンバコを買って、ゴミで支払いましょう」と書かれている。
一般には、地域ごとに預金者個人をひとまとめにしたグループが作られ、預金者個人の通帳に加えて、グループ全体の通帳も作られる。グループ全体の通帳に記載される額は、各預金者個人の通帳に記載された額の合計額になる。1グループは20人以上の預金者で構成される。
現時点で、320グループ、175の学校、グループに属さない400人、30の組織がゴミ銀行の顧客となっている。
ゴミ銀行は、預金者から集めたゴミを業者や工場などへ売って利益を得る。昨年の年間売上額は2億ルピア、純利益は2000万ルピア程度出ている。
ゴミ銀行では、ゴミを使ったバイオガスの実験も試みている。
また、ミミズを増やす試みもしている。
ゴミ銀行の裏は、様々なゴミの分別場となっていた。
ゴミ銀行の連絡先は以下のとおり。
Bank Sampah Malang (BSM)
Jl. S. Supriyadi No. 38A, Malang
Tel. 0341-341618, Fax. 0341-369377
Email: banksampahmalang@yahoo.com
Contact Person: Bapak Rahmat Hidayat, ST (Direktur BSM),
0812-3521-4545, 0341-7779912.
今回は、ゴミ銀行以外に、住民主体で運営しているゴミ分別場や、環境に配慮したゴミ処理場も見学した。
住民主体で運営しているゴミ分別場はムルヨアグン村にあり、住民による1日30立方メートルものゴミのブランタス川への投棄が問題となり、2008年に村長が川へのゴミ投棄を禁止した。そこでの対策ということで、村にゴミ分別場を作り、無機ゴミの食べかすを家畜の餌に、それ以外は処理して業者へ売るほか、有機ゴミをコンポストにするなどの対策をとった。毎朝、ウジ虫を収集して養魚池にまくことで、ハエの発生を95%減少させたという。
政府からは、まず畜産局からヤギが11頭与えられ、糞を堆肥作りに活用する。乳は従業員たちで飲む。水産局からナマズの稚魚が提供され、残飯などを与えて、ナマズを養殖する(写真下)。
このゴミ分別場は、現在、7600世帯からのゴミを1日64立方メートル処理しているが、処理能力に限界があるため、規模の拡大は考えていない。すべての作業は1日で終わらせる。77人が雇用されている。
最後に訪れたのは、マラン県のタランアグン・ゴミ処理場で、ここは観光も兼ねたゴミ活用の学習施設と銘打っている。
実際、ゴミから発生したメタンガスをコンロや電灯などに使っている。空き缶を使ってブロックで仕切った簡易なコンロ「ノナク」(私の彼女、という意味)は面白かった。
ゴミから出た汚水を植物用にまいたりもしており、その成果なのか、発育が良いものがあるということだった。
ゴミ処理場へ向かう道には、様々な植物が植えられ、緑の多い、きれいな公園のようである。前の職場での後輩の研究者は、様々なゴミ処分場を訪問しているが、こんなきれいなところは初めてだと驚いていた。
ゴミ処理場にパイプが引かれ、そこを通じてメタンガスが実験棟へ送られている。
まだまだ改善・改良を余地はあるだろう。もしかしたら、日本の技術を組み合わせると、もっと面白いことが起こるかもしれない。
ともあれ、東ジャワ州には、こうしたゴミを生かす試みが様々に行われている現場がある。インドネシア発の様々な試みをじっくりと注目していきたい。
マラン市のゴミ銀行の話は、2013年11月30日のジャワ・ポス・グループによる「地方自治賞」受賞式の際に、経済発展部門でマラン市が最優秀賞を取った際の受賞理由の一つに挙げられていた。いずれは見に行きたいと思っていたので、今回はまたとないチャンスと思ったのである。
マラン市のゴミ銀行は2011年に設立されたが、市民からはゴミ処理場を勘違いされて、最初は設立反対の声が多かった。市内に適当な場所が見つからず、結局、市営墓地の管理事務所に設立することとした。この管理事務所は、以前、オランダ植民地時代には遺体安置所だったということだが、ここを改修して、事務所として使うことになった。
ゴミ銀行は70種類のゴミに分別し、それをいくらで買い取るかの価格表が用意されている。ゴミ銀行の利用者は、ゴミ銀行に直接ゴミを持ち込むこともできるようだが、一般的には、ゴミ銀行の職員が出向いた際、そこへゴミを持ってくることになる。ゴミは、できれば予め、70種類のゴミ分別表に基づいて分別したうえで持参し、そこでゴミ銀行員の係員が帳簿をつける。そこでの記録に基づいて、各預金者のゴミ預金通帳に記載が行われ、「どんなゴミをどれだけ持ち込んだことでいくらお金に代わったか」が一覧表になって示される。
このゴミ銀行の預金を使って、コメや食用油などスンバコと呼ばれる生活必需品を購入したり、電気料金を支払ったりすることができる。「スンバコを買って、ゴミで支払いましょう」と書かれている。
一般には、地域ごとに預金者個人をひとまとめにしたグループが作られ、預金者個人の通帳に加えて、グループ全体の通帳も作られる。グループ全体の通帳に記載される額は、各預金者個人の通帳に記載された額の合計額になる。1グループは20人以上の預金者で構成される。
現時点で、320グループ、175の学校、グループに属さない400人、30の組織がゴミ銀行の顧客となっている。
ゴミ銀行は、預金者から集めたゴミを業者や工場などへ売って利益を得る。昨年の年間売上額は2億ルピア、純利益は2000万ルピア程度出ている。
ゴミ銀行では、ゴミを使ったバイオガスの実験も試みている。
また、ミミズを増やす試みもしている。
ゴミ銀行の裏は、様々なゴミの分別場となっていた。
ゴミ銀行の連絡先は以下のとおり。
Bank Sampah Malang (BSM)
Jl. S. Supriyadi No. 38A, Malang
Tel. 0341-341618, Fax. 0341-369377
Email: banksampahmalang@yahoo.com
Contact Person: Bapak Rahmat Hidayat, ST (Direktur BSM),
0812-3521-4545, 0341-7779912.
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今回は、ゴミ銀行以外に、住民主体で運営しているゴミ分別場や、環境に配慮したゴミ処理場も見学した。
住民主体で運営しているゴミ分別場はムルヨアグン村にあり、住民による1日30立方メートルものゴミのブランタス川への投棄が問題となり、2008年に村長が川へのゴミ投棄を禁止した。そこでの対策ということで、村にゴミ分別場を作り、無機ゴミの食べかすを家畜の餌に、それ以外は処理して業者へ売るほか、有機ゴミをコンポストにするなどの対策をとった。毎朝、ウジ虫を収集して養魚池にまくことで、ハエの発生を95%減少させたという。
政府からは、まず畜産局からヤギが11頭与えられ、糞を堆肥作りに活用する。乳は従業員たちで飲む。水産局からナマズの稚魚が提供され、残飯などを与えて、ナマズを養殖する(写真下)。
このゴミ分別場は、現在、7600世帯からのゴミを1日64立方メートル処理しているが、処理能力に限界があるため、規模の拡大は考えていない。すべての作業は1日で終わらせる。77人が雇用されている。
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最後に訪れたのは、マラン県のタランアグン・ゴミ処理場で、ここは観光も兼ねたゴミ活用の学習施設と銘打っている。
実際、ゴミから発生したメタンガスをコンロや電灯などに使っている。空き缶を使ってブロックで仕切った簡易なコンロ「ノナク」(私の彼女、という意味)は面白かった。
ゴミから出た汚水を植物用にまいたりもしており、その成果なのか、発育が良いものがあるということだった。
ゴミ処理場へ向かう道には、様々な植物が植えられ、緑の多い、きれいな公園のようである。前の職場での後輩の研究者は、様々なゴミ処分場を訪問しているが、こんなきれいなところは初めてだと驚いていた。
ゴミ処理場にパイプが引かれ、そこを通じてメタンガスが実験棟へ送られている。
まだまだ改善・改良を余地はあるだろう。もしかしたら、日本の技術を組み合わせると、もっと面白いことが起こるかもしれない。
ともあれ、東ジャワ州には、こうしたゴミを生かす試みが様々に行われている現場がある。インドネシア発の様々な試みをじっくりと注目していきたい。
2014年2月25日火曜日
トンプの人々と陸稲
先ほど、フェイスブックで友人から興味深い投稿があった。インドネシア・スラウェシ島の中央部、中スラウェシ州のトンプという村での人々と陸稲との関係についてのエッセイである。
トンプについては、以前から、友人たちと様々な話を聞き、実際にトンプの人々ともお会いして、いかに人間が自然とうまく調和しながら生きてきたかを学んだ。
今回は、投稿者のサレー・アブドゥラ氏から許可をもらい、その内容をインドネシア語から日本語に訳したものをここに掲載する。
「近くに見えても、歩けば遠い」。パル市からも見える丘の上のトンプの人々の場所をルン・ラチュパ氏はこう説明する。我々が立っている足元からわずか17キロなのだが。
トンプの人々の住む場所が政府によって一方的に保護林に指定されたために、人々が自分たちの故郷を追われた後、トンプの人々は様々な陸稲の固有種を失うことになった。ルン氏の記録によると、故郷を追われる前に、トンプの人々は50種類以上の陸稲の固有種を持っていた。人々は最終的に故郷へ戻れたのだが、そのときに集められたのはわずか10数種類に過ぎなかった。
「それらの種の一つを他の場所で育てられないか」と聞くと、ルン氏は「トンプの人のやり方に従って陸稲を取り扱うことが確実にできなければならない。そうでなければ難しい」と答える。なぜなら、それらの種々の陸稲はトンプの人々の生活の一部だからである。しかも、それらの固有種の多くは一代種なのである。このため、畑からの陸稲の収穫にはかなりの注意を向ける。適当には扱えないのである。陸稲はアニアニ(2つの石斤をハサミのように組み合わせた石器)で穂のすぐ下の部分を刈り取り、米倉に注意深く保管する。彼らは脱穀機を使わない。なぜなら、それが陸稲に痛みを与えるからだ。そして、これらすべては、儀式のもとで行われる。
もしもまだ刈り取られていない残った陸稲があると、トンプの人々は涙を浮かべながら刈り取るというのである。次のように歌いながら。
旗のように残ってしまった我が同胞よ
涙がもう流れてきます
涙がもう溢れてきます
涙とともにお迎えに参ります
インドネシアにいると、半ば強制的に、故郷を追われた人々が実にたくさんいることが分かる。トンプの人々のように、ある日突然、「ここは保護林だ。国立公園だ。出て行け」と言われた人々もいる。火山の噴火や地震などの災害で、二度と故郷に戻れない人々もいる。あるいは、地方反乱などで村全体が焼かれ、命からがら逃げて、全く見ず知らずのところに村をもう一度作るようなケースもある。
そうして故郷を追われたそのときに、彼らがそれまでに代々培ってきた様々なものがなくなっていったことだろう。それはトンプの人々にとっての陸稲の固有種であったり、その土地を基盤とした様々な言い伝えや物語であったり、人と人との絆であったり・・・。
インドネシアでかつては日常茶飯のように起きていた、故郷を喪失させられた人々の物語を、原発事故で故郷を追われた人々の物語とダブらせている。
トンプについては、以前から、友人たちと様々な話を聞き、実際にトンプの人々ともお会いして、いかに人間が自然とうまく調和しながら生きてきたかを学んだ。
今回は、投稿者のサレー・アブドゥラ氏から許可をもらい、その内容をインドネシア語から日本語に訳したものをここに掲載する。
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「近くに見えても、歩けば遠い」。パル市からも見える丘の上のトンプの人々の場所をルン・ラチュパ氏はこう説明する。我々が立っている足元からわずか17キロなのだが。
トンプの人々の住む場所が政府によって一方的に保護林に指定されたために、人々が自分たちの故郷を追われた後、トンプの人々は様々な陸稲の固有種を失うことになった。ルン氏の記録によると、故郷を追われる前に、トンプの人々は50種類以上の陸稲の固有種を持っていた。人々は最終的に故郷へ戻れたのだが、そのときに集められたのはわずか10数種類に過ぎなかった。
「それらの種の一つを他の場所で育てられないか」と聞くと、ルン氏は「トンプの人のやり方に従って陸稲を取り扱うことが確実にできなければならない。そうでなければ難しい」と答える。なぜなら、それらの種々の陸稲はトンプの人々の生活の一部だからである。しかも、それらの固有種の多くは一代種なのである。このため、畑からの陸稲の収穫にはかなりの注意を向ける。適当には扱えないのである。陸稲はアニアニ(2つの石斤をハサミのように組み合わせた石器)で穂のすぐ下の部分を刈り取り、米倉に注意深く保管する。彼らは脱穀機を使わない。なぜなら、それが陸稲に痛みを与えるからだ。そして、これらすべては、儀式のもとで行われる。
もしもまだ刈り取られていない残った陸稲があると、トンプの人々は涙を浮かべながら刈り取るというのである。次のように歌いながら。
旗のように残ってしまった我が同胞よ
涙がもう流れてきます
涙がもう溢れてきます
涙とともにお迎えに参ります
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インドネシアにいると、半ば強制的に、故郷を追われた人々が実にたくさんいることが分かる。トンプの人々のように、ある日突然、「ここは保護林だ。国立公園だ。出て行け」と言われた人々もいる。火山の噴火や地震などの災害で、二度と故郷に戻れない人々もいる。あるいは、地方反乱などで村全体が焼かれ、命からがら逃げて、全く見ず知らずのところに村をもう一度作るようなケースもある。
そうして故郷を追われたそのときに、彼らがそれまでに代々培ってきた様々なものがなくなっていったことだろう。それはトンプの人々にとっての陸稲の固有種であったり、その土地を基盤とした様々な言い伝えや物語であったり、人と人との絆であったり・・・。
インドネシアでかつては日常茶飯のように起きていた、故郷を喪失させられた人々の物語を、原発事故で故郷を追われた人々の物語とダブらせている。
2014年2月21日金曜日
出発当日、鉄道切符の払い戻しは?
先日のクルド火山噴火で、今週、2月16〜18日に予定していたソロへの出張が延期になった。スラバヤからソロへは航空便がないので、鉄道を利用する。おおよそ3時間程度なので、さほど苦にはならない。
さて、今回、その切符の払い戻しをするために、スラバヤ・グベン駅へ行った。2月16日、本来なら出発する日である。当日のキャンセルなので、まあ、半額でも20%でも払い戻しできればラッキー、払い戻しできない可能性もあるな、という軽い気持ちで行った。
結果は・・・。意外だった。2月16日のスラバヤ発ソロ行きの切符は、当日ということでダメだと思ったら、「当日なのでこの場で処理する」という理由で、全額、その場で戻ってきた。一方、2月18日のソロ発スラバヤ行きの切符は、「マニュアルで処理しなければならない」という理由で、1か月後以降、25%の手数料を引いた額が払い戻される。
すなわち、インドネシアでは、切符の払い戻しをする場合、少なくとも乗車駅で当日に払い戻すと、100%その場でお金が戻ってくるのである。
参考になれば幸いである。
さて、今回、その切符の払い戻しをするために、スラバヤ・グベン駅へ行った。2月16日、本来なら出発する日である。当日のキャンセルなので、まあ、半額でも20%でも払い戻しできればラッキー、払い戻しできない可能性もあるな、という軽い気持ちで行った。
結果は・・・。意外だった。2月16日のスラバヤ発ソロ行きの切符は、当日ということでダメだと思ったら、「当日なのでこの場で処理する」という理由で、全額、その場で戻ってきた。一方、2月18日のソロ発スラバヤ行きの切符は、「マニュアルで処理しなければならない」という理由で、1か月後以降、25%の手数料を引いた額が払い戻される。
すなわち、インドネシアでは、切符の払い戻しをする場合、少なくとも乗車駅で当日に払い戻すと、100%その場でお金が戻ってくるのである。
参考になれば幸いである。
2014年2月19日水曜日
クルド火山噴火、スマランから戻って
先週は、2月12〜14日の予定で中ジャワ州スマランへ出張していた。用務は順調に進んでいたが、14日朝、東ジャワ州のクルド火山が噴火したとの報道を聞いた。スラバヤでも火山灰が降っているらしいが、それを聞いたとき、スマランはまだその徴候はなかった。
14日朝9時過ぎ、スマラン空港でジャカルタから来た方と合流し、車に乗って訪問先へ向かおうとしたとき、チラチラと白い粉が空から舞い降りてきた。火山灰だった。
このとき、なぜか、3・11の後、原発が爆発した直後、福島県双葉地方に降ったという白い物体のことを思った。
空港には、すでに火山灰で真っ白な車もあった。中ジャワでも、サラティガから南は火山灰に覆われているとのことだった。ジョグジャカルタの友人から電話があり、火山灰が降っていて外には出られない状況とのことだった。スマランの状況からはちょっと信じられなかった。
間もなく、スマラン空港は閉鎖になった。そのときすでに、スラバヤ、マラン、ジョグジャカルタ、ソロの各空港は閉鎖になっており、日帰りの予定だったジャカルタから来たばかりの方々が慌て始めた。もちろん、私のスマラン発スラバヤ行きの便も早々にSMSでキャンセルのお知らせが来た。
用務の合間に、ジャカルタから来た方々の帰りの鉄道の切符確保と私の鉄道の切符確保に走った。その頃にはすでに、スマラン発ジャカルタ行きのほとんどの切符は売り切れになっていたが、スマラン発スラバヤ行きの切符はまだまだ余裕があった。
ジャカルタから来た方々はスマランに1泊して、翌15日朝発の鉄道列車のビジネス席に乗って帰ることになった。私は、15日午前2時半発の夜行列車でスラバヤへ戻ることにした。
1泊を余儀なくされたジャカルタから来た方と夕食を共にし、その後、深夜までワインなど飲んで、すっかり気分が良くなっていた。私はスマラン・タワン駅へ向かい、1時間遅れて着いた夜行列車に乗り、ワインの酔いのせいもあり、スラバヤまですっかり熟睡した。
スラバヤ・パサールトゥリ駅に午前7時過ぎに到着し、タクシーに乗って無事自宅に到着。あーあ、疲れた、と思ってカバンを開けたら・・・。
ない。ない。ノートパソコンとiPadがなくなっている。一体、どこで・・・。
そういえば、列車を降りるとき、網棚の上に置いたカバンの位置がちょっと違っていたのが気になったが、まあ、列車が揺れたりして動いたのだろうと思って、気にしなかった。そして、なぜそのカバンに、今回だけは鍵をかけなかったのだろうか、と後悔したが、後の祭りだった。
手元のiPhoneでiPadを探してみるが、オフラインのままで反応がない。
でも、幸い、パスポートやクレジットカードは無事だった。パソコンのデータもクラウドに保存してあったので、実害はほとんどなかった。
最近、ちょっとポカが多くなった気がする。この間も、パレンバンで古いデジカメを盗られた。年齢のせいなのか、疲れているためなのか。
ショックだったが、しょんぼりしてはいられない。土日を使って、月曜締切の原稿2本、火曜締切の原稿2本を書かなければならないのだ。
とにかく、すぐに代わりのパソコンを手にしなければならない。思い切って、MacBook Airを購入し、18日(火)までに4本の原稿をそれで書いた。このブログもそれで書いている。
原稿を書き終わった後、本当に久しぶりに2時間、昼寝をした。ほんとうに本当に久しぶりによく寝た。
スラバヤは連日の激しい雷雨で、クルド火山の火山灰はほとんど洗い流されていた。16日朝にはスラバヤ空港も再開し、見た目には、噴火の影響は何もないように見える。しかし、スラバヤから車で2時間も行けば、火山灰に覆われ、避難を余儀なくされた人々の場所がある。
スマランからスラバヤへ向かう列車の中で、ボジョヌゴロ付近からしばらく、空の白が異常なほど濃くなっているのが見え、その上に、顔面蒼白のような太陽が見えた。それを見ながら、怖いと思った。再び、3・11後の福島県双葉地方のことを思っていた。
14日朝9時過ぎ、スマラン空港でジャカルタから来た方と合流し、車に乗って訪問先へ向かおうとしたとき、チラチラと白い粉が空から舞い降りてきた。火山灰だった。
このとき、なぜか、3・11の後、原発が爆発した直後、福島県双葉地方に降ったという白い物体のことを思った。
空港には、すでに火山灰で真っ白な車もあった。中ジャワでも、サラティガから南は火山灰に覆われているとのことだった。ジョグジャカルタの友人から電話があり、火山灰が降っていて外には出られない状況とのことだった。スマランの状況からはちょっと信じられなかった。
間もなく、スマラン空港は閉鎖になった。そのときすでに、スラバヤ、マラン、ジョグジャカルタ、ソロの各空港は閉鎖になっており、日帰りの予定だったジャカルタから来たばかりの方々が慌て始めた。もちろん、私のスマラン発スラバヤ行きの便も早々にSMSでキャンセルのお知らせが来た。
用務の合間に、ジャカルタから来た方々の帰りの鉄道の切符確保と私の鉄道の切符確保に走った。その頃にはすでに、スマラン発ジャカルタ行きのほとんどの切符は売り切れになっていたが、スマラン発スラバヤ行きの切符はまだまだ余裕があった。
ジャカルタから来た方々はスマランに1泊して、翌15日朝発の鉄道列車のビジネス席に乗って帰ることになった。私は、15日午前2時半発の夜行列車でスラバヤへ戻ることにした。
1泊を余儀なくされたジャカルタから来た方と夕食を共にし、その後、深夜までワインなど飲んで、すっかり気分が良くなっていた。私はスマラン・タワン駅へ向かい、1時間遅れて着いた夜行列車に乗り、ワインの酔いのせいもあり、スラバヤまですっかり熟睡した。
スラバヤ・パサールトゥリ駅に午前7時過ぎに到着し、タクシーに乗って無事自宅に到着。あーあ、疲れた、と思ってカバンを開けたら・・・。
ない。ない。ノートパソコンとiPadがなくなっている。一体、どこで・・・。
そういえば、列車を降りるとき、網棚の上に置いたカバンの位置がちょっと違っていたのが気になったが、まあ、列車が揺れたりして動いたのだろうと思って、気にしなかった。そして、なぜそのカバンに、今回だけは鍵をかけなかったのだろうか、と後悔したが、後の祭りだった。
手元のiPhoneでiPadを探してみるが、オフラインのままで反応がない。
でも、幸い、パスポートやクレジットカードは無事だった。パソコンのデータもクラウドに保存してあったので、実害はほとんどなかった。
最近、ちょっとポカが多くなった気がする。この間も、パレンバンで古いデジカメを盗られた。年齢のせいなのか、疲れているためなのか。
ショックだったが、しょんぼりしてはいられない。土日を使って、月曜締切の原稿2本、火曜締切の原稿2本を書かなければならないのだ。
とにかく、すぐに代わりのパソコンを手にしなければならない。思い切って、MacBook Airを購入し、18日(火)までに4本の原稿をそれで書いた。このブログもそれで書いている。
原稿を書き終わった後、本当に久しぶりに2時間、昼寝をした。ほんとうに本当に久しぶりによく寝た。
スラバヤは連日の激しい雷雨で、クルド火山の火山灰はほとんど洗い流されていた。16日朝にはスラバヤ空港も再開し、見た目には、噴火の影響は何もないように見える。しかし、スラバヤから車で2時間も行けば、火山灰に覆われ、避難を余儀なくされた人々の場所がある。
スマランからスラバヤへ向かう列車の中で、ボジョヌゴロ付近からしばらく、空の白が異常なほど濃くなっているのが見え、その上に、顔面蒼白のような太陽が見えた。それを見ながら、怖いと思った。再び、3・11後の福島県双葉地方のことを思っていた。
2014年2月12日水曜日
言葉が下手だからコミュニケーションできない・・・
今日、用事があってスラバヤ市政府の役人と会った。インドネシア語でいろいろ説明していると、その途中で先方が言い出した。「せっかくこちらがお前を助けてあげようとしているのに、お前の言葉が下手だからコミュニケーションができない」と。要するに、私とは話をしたくない、という婉曲表現である。
助けてあげたいのにできない、というのも彼らの常套文句で、助ける気などこれっぽっちもないのに、恩着せがましく言うのである。
この役人は、私がいきなりアポなしで会いに来たのが気に入らなかったのである。私は、来週スラバヤに来る訪問団のアポを取るため、正式レターを出す前にどの部署を訪ねるのがよいか、探るために出かけたのである。インドネシアでは進んでいるといわれるスラバヤ市政府でも、全ての部署の電話やメルアドが明記されている訳でもなく、また電話しても途中で切られてしまうことが少なくない。今回、ある程度当たりを付けてから、レターを出す心づもりだった。
でも、役人はレターなしで来る人間には極めて冷たい態度をとる。もしそうなら、あの不愉快な役人は私と会うのを拒み、「レターがなければ会えない」と言いさえすればよかったのだ。それを面会に応じ、いやそうなそぶりを見せながら「お前を助けたいのに、お前の言葉が下手なせいで助けられない」などとわざわざ言うのである。結局、結論は「レターを出せ」なのであった。
こうした経験は、スラウェシやマカッサルにいた時にはまずなかった。数少ない経験ではあるが、それはいずれもジャワでの経験である。言い訳になるかもしれないが、これは決してジャワを悪く言いたいがための話ではないことを断っておく。
助けてあげたいのにできない、というのも彼らの常套文句で、助ける気などこれっぽっちもないのに、恩着せがましく言うのである。
この役人は、私がいきなりアポなしで会いに来たのが気に入らなかったのである。私は、来週スラバヤに来る訪問団のアポを取るため、正式レターを出す前にどの部署を訪ねるのがよいか、探るために出かけたのである。インドネシアでは進んでいるといわれるスラバヤ市政府でも、全ての部署の電話やメルアドが明記されている訳でもなく、また電話しても途中で切られてしまうことが少なくない。今回、ある程度当たりを付けてから、レターを出す心づもりだった。
でも、役人はレターなしで来る人間には極めて冷たい態度をとる。もしそうなら、あの不愉快な役人は私と会うのを拒み、「レターがなければ会えない」と言いさえすればよかったのだ。それを面会に応じ、いやそうなそぶりを見せながら「お前を助けたいのに、お前の言葉が下手なせいで助けられない」などとわざわざ言うのである。結局、結論は「レターを出せ」なのであった。
こうした経験は、スラウェシやマカッサルにいた時にはまずなかった。数少ない経験ではあるが、それはいずれもジャワでの経験である。言い訳になるかもしれないが、これは決してジャワを悪く言いたいがための話ではないことを断っておく。
ふと25年近く前の出来事を思い出した。前にもブログに書いた話かもしれないが、もう一度書く。あのときは、ジャカルタで日本から来た専門家のセミナーで、慣れないながらも通訳をさせられた。セミナー出席者は模範工場を見学し、その感想を述べる場面で、その模範工場の欠点ばかりを指摘した。専門家は「本当に欠点ばかりだったのでしょうか。ご自分の工場と比べてよかった点は率直に認めることも必要ではないでしょうか」と述べた。私はそれを通訳した。
まとめのセッションで、参加者の感想を述べ合う時間が来た。そこで参加者のほとんどは、「通訳のインドネシア語が下手だからよく分からなかった」と述べたのである。私は泣きそうになった。セミナー参加者は、専門家の言葉に直接反論できないので、通訳を標的にして、自分たちが劣っているということを面前で認めずに済ませたのである。私は、そのいやらしさを痛感しながら、「自分の通訳の能力不足のせいなのだ」とセミナー参加者へ何度も詫びた。
あのときと同じ「いやらしさ」を、今日の役人との面会で久々に感じた。
言葉が下手だからお前とはコミュニケーションできない、と言われれば、そりゃあ、30年近くインドネシアと付き合い、インドネシア語でやり取りしてきたとはいえ、外国人のインドネシア語だし、と思うほかない。この30年で、インドネシア語も相当に乱れてきており、高校生の書くインドネシア語の文章などびっくりするぐらい下手で、赤ペンで添削したくなるようなレベルなのだが、私のはあくまでも外国人のインドネシア語、そう思うことにしている。
気分的なものにすぎないのだろうが、こうした「いやらしさ」の経験が、私自身、どうしてもジャワというものを心の底から好きになれない要因となっていることを否定できない。
2014年2月8日土曜日
日本出張から戻って
1月30日にジャカルタを出発し、2月7日にジャカルタへ戻ってきた。今日(8日)はジャカルタで仕事があり、明日(9日)昼過ぎにスラバヤへ戻る。
今回は、前回の年末年始帰国とは違い、仕事のための帰国だった。2月4~6日に講演やレクチャーなどがびっしり入った。そこで、比較的余裕のある1月31日~2月3日は福島、滋賀、大阪へと動こうと思っていたのだが…。それらはすべてキャンセルとせざるを得なくなった。
福島、滋賀でどうしてもお会いしたい人がいた。今の自分にとって、一番、会って直接お話が聞きたい人だった。
何というタイミングで妻が病気で寝込んでしまったのだろう、と、本当に残念だった。大学受験生の娘もいる。キャンセルした後、ずっと家で、久々に料理を作ったり、洗濯をしたり、家事らしいことを少しやってみた。「お父さんの作る料理はおいしい」と娘からお世辞を言われるのも、まんざらではなかった。
自分にとって、何が大事なのか。大事なものの優先順位を改めて自問した。言うまでもない。何よりも大事なのは、家族だ。
今、自分がこうして、インドネシアを拠点に単身で活動できるのも、家族が健康で元気に過ごしてくれているという安心感があってこそである。いつでも電話やメールで連絡できると分かっているからこそ、1ヵ月に1回しかやりとりしなくても、便りがないのはよい便り、と思うことができる。こんな家族生活を始めてから、すでに7年以上が経った。
チャンスはそうそうあるものではないから、チャンスがあったら絶対に逃すな、という言葉には真理がある。しかし、チャンスを得ることで大切なものを失うこともある。もちろん、逆に、チャンスを逃して、なおかつ大切なものを失うこともある。欲張りな私は、チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。
でも、目の前で寝込んでいる妻を見捨てて、福島、滋賀、大阪へ出かけることはできなかった。
幸い、妻の状態は6日までにずいぶん持ち直した。すぐに回復することを願う。
自分は甘いのかもしれない。世の中で何かをなした人たちのなかには、家族を犠牲にしたり、極貧の状態にあえいだり、病気になったりしても、自分がなすべきことをなそうとして実際になした人々がおり、後世ではその生き方が称賛されたりもする。私はそこまで行けない。
2月5日・6日は、朝から晩までほぼ全日、かなりの数のアポが入った。それを懸命にこなしながら、ふっと気を抜くと、寝不足ということもあり、風邪を本格的に引きそうな、あるいはふらっとそこに倒れてしまいそうな、そんな気分になった。
その意味で、翌7日、家でゆっくり休まずに、飛行機に乗り、インドネシア・ジャカルタへ飛んできてしまったのは、良かったのかもしれない。今のところ、日本で乾燥した皮膚がちょっとボロボロになる程度で済んでいる。
真剣に生きる、ということを、今まで以上に強く思い始めている。チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。欲張りな自分でいきたい。
今回は、前回の年末年始帰国とは違い、仕事のための帰国だった。2月4~6日に講演やレクチャーなどがびっしり入った。そこで、比較的余裕のある1月31日~2月3日は福島、滋賀、大阪へと動こうと思っていたのだが…。それらはすべてキャンセルとせざるを得なくなった。
福島、滋賀でどうしてもお会いしたい人がいた。今の自分にとって、一番、会って直接お話が聞きたい人だった。
何というタイミングで妻が病気で寝込んでしまったのだろう、と、本当に残念だった。大学受験生の娘もいる。キャンセルした後、ずっと家で、久々に料理を作ったり、洗濯をしたり、家事らしいことを少しやってみた。「お父さんの作る料理はおいしい」と娘からお世辞を言われるのも、まんざらではなかった。
自分にとって、何が大事なのか。大事なものの優先順位を改めて自問した。言うまでもない。何よりも大事なのは、家族だ。
今、自分がこうして、インドネシアを拠点に単身で活動できるのも、家族が健康で元気に過ごしてくれているという安心感があってこそである。いつでも電話やメールで連絡できると分かっているからこそ、1ヵ月に1回しかやりとりしなくても、便りがないのはよい便り、と思うことができる。こんな家族生活を始めてから、すでに7年以上が経った。
チャンスはそうそうあるものではないから、チャンスがあったら絶対に逃すな、という言葉には真理がある。しかし、チャンスを得ることで大切なものを失うこともある。もちろん、逆に、チャンスを逃して、なおかつ大切なものを失うこともある。欲張りな私は、チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。
でも、目の前で寝込んでいる妻を見捨てて、福島、滋賀、大阪へ出かけることはできなかった。
幸い、妻の状態は6日までにずいぶん持ち直した。すぐに回復することを願う。
2月5日・6日は、朝から晩までほぼ全日、かなりの数のアポが入った。それを懸命にこなしながら、ふっと気を抜くと、寝不足ということもあり、風邪を本格的に引きそうな、あるいはふらっとそこに倒れてしまいそうな、そんな気分になった。
その意味で、翌7日、家でゆっくり休まずに、飛行機に乗り、インドネシア・ジャカルタへ飛んできてしまったのは、良かったのかもしれない。今のところ、日本で乾燥した皮膚がちょっとボロボロになる程度で済んでいる。
真剣に生きる、ということを、今まで以上に強く思い始めている。チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。欲張りな自分でいきたい。
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