2014年2月25日火曜日

トンプの人々と陸稲

先ほど、フェイスブックで友人から興味深い投稿があった。インドネシア・スラウェシ島の中央部、中スラウェシ州のトンプという村での人々と陸稲との関係についてのエッセイである。

トンプについては、以前から、友人たちと様々な話を聞き、実際にトンプの人々ともお会いして、いかに人間が自然とうまく調和しながら生きてきたかを学んだ。

今回は、投稿者のサレー・アブドゥラ氏から許可をもらい、その内容をインドネシア語から日本語に訳したものをここに掲載する。

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「近くに見えても、歩けば遠い」。パル市からも見える丘の上のトンプの人々の場所をルン・ラチュパ氏はこう説明する。我々が立っている足元からわずか17キロなのだが。

トンプの人々の住む場所が政府によって一方的に保護林に指定されたために、人々が自分たちの故郷を追われた後、トンプの人々は様々な陸稲の固有種を失うことになった。ルン氏の記録によると、故郷を追われる前に、トンプの人々は50種類以上の陸稲の固有種を持っていた。人々は最終的に故郷へ戻れたのだが、そのときに集められたのはわずか10数種類に過ぎなかった。

「それらの種の一つを他の場所で育てられないか」と聞くと、ルン氏は「トンプの人のやり方に従って陸稲を取り扱うことが確実にできなければならない。そうでなければ難しい」と答える。なぜなら、それらの種々の陸稲はトンプの人々の生活の一部だからである。しかも、それらの固有種の多くは一代種なのである。このため、畑からの陸稲の収穫にはかなりの注意を向ける。適当には扱えないのである。陸稲はアニアニ(2つの石斤をハサミのように組み合わせた石器)で穂のすぐ下の部分を刈り取り、米倉に注意深く保管する。彼らは脱穀機を使わない。なぜなら、それが陸稲に痛みを与えるからだ。そして、これらすべては、儀式のもとで行われる。

もしもまだ刈り取られていない残った陸稲があると、トンプの人々は涙を浮かべながら刈り取るというのである。次のように歌いながら。

 旗のように残ってしまった我が同胞よ
 涙がもう流れてきます
 涙がもう溢れてきます
 涙とともにお迎えに参ります

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インドネシアにいると、半ば強制的に、故郷を追われた人々が実にたくさんいることが分かる。トンプの人々のように、ある日突然、「ここは保護林だ。国立公園だ。出て行け」と言われた人々もいる。火山の噴火や地震などの災害で、二度と故郷に戻れない人々もいる。あるいは、地方反乱などで村全体が焼かれ、命からがら逃げて、全く見ず知らずのところに村をもう一度作るようなケースもある。

そうして故郷を追われたそのときに、彼らがそれまでに代々培ってきた様々なものがなくなっていったことだろう。それはトンプの人々にとっての陸稲の固有種であったり、その土地を基盤とした様々な言い伝えや物語であったり、人と人との絆であったり・・・。

インドネシアでかつては日常茶飯のように起きていた、故郷を喪失させられた人々の物語を、原発事故で故郷を追われた人々の物語とダブらせている。

2014年2月21日金曜日

出発当日、鉄道切符の払い戻しは?

先日のクルド火山噴火で、今週、2月16〜18日に予定していたソロへの出張が延期になった。スラバヤからソロへは航空便がないので、鉄道を利用する。おおよそ3時間程度なので、さほど苦にはならない。

さて、今回、その切符の払い戻しをするために、スラバヤ・グベン駅へ行った。2月16日、本来なら出発する日である。当日のキャンセルなので、まあ、半額でも20%でも払い戻しできればラッキー、払い戻しできない可能性もあるな、という軽い気持ちで行った。

結果は・・・。意外だった。2月16日のスラバヤ発ソロ行きの切符は、当日ということでダメだと思ったら、「当日なのでこの場で処理する」という理由で、全額、その場で戻ってきた。一方、2月18日のソロ発スラバヤ行きの切符は、「マニュアルで処理しなければならない」という理由で、1か月後以降、25%の手数料を引いた額が払い戻される。

すなわち、インドネシアでは、切符の払い戻しをする場合、少なくとも乗車駅で当日に払い戻すと、100%その場でお金が戻ってくるのである。

参考になれば幸いである。

2014年2月19日水曜日

クルド火山噴火、スマランから戻って

先週は、2月12〜14日の予定で中ジャワ州スマランへ出張していた。用務は順調に進んでいたが、14日朝、東ジャワ州のクルド火山が噴火したとの報道を聞いた。スラバヤでも火山灰が降っているらしいが、それを聞いたとき、スマランはまだその徴候はなかった。

14日朝9時過ぎ、スマラン空港でジャカルタから来た方と合流し、車に乗って訪問先へ向かおうとしたとき、チラチラと白い粉が空から舞い降りてきた。火山灰だった。

このとき、なぜか、3・11の後、原発が爆発した直後、福島県双葉地方に降ったという白い物体のことを思った。

空港には、すでに火山灰で真っ白な車もあった。中ジャワでも、サラティガから南は火山灰に覆われているとのことだった。ジョグジャカルタの友人から電話があり、火山灰が降っていて外には出られない状況とのことだった。スマランの状況からはちょっと信じられなかった。

間もなく、スマラン空港は閉鎖になった。そのときすでに、スラバヤ、マラン、ジョグジャカルタ、ソロの各空港は閉鎖になっており、日帰りの予定だったジャカルタから来たばかりの方々が慌て始めた。もちろん、私のスマラン発スラバヤ行きの便も早々にSMSでキャンセルのお知らせが来た。

用務の合間に、ジャカルタから来た方々の帰りの鉄道の切符確保と私の鉄道の切符確保に走った。その頃にはすでに、スマラン発ジャカルタ行きのほとんどの切符は売り切れになっていたが、スマラン発スラバヤ行きの切符はまだまだ余裕があった。

ジャカルタから来た方々はスマランに1泊して、翌15日朝発の鉄道列車のビジネス席に乗って帰ることになった。私は、15日午前2時半発の夜行列車でスラバヤへ戻ることにした。

1泊を余儀なくされたジャカルタから来た方と夕食を共にし、その後、深夜までワインなど飲んで、すっかり気分が良くなっていた。私はスマラン・タワン駅へ向かい、1時間遅れて着いた夜行列車に乗り、ワインの酔いのせいもあり、スラバヤまですっかり熟睡した。

スラバヤ・パサールトゥリ駅に午前7時過ぎに到着し、タクシーに乗って無事自宅に到着。あーあ、疲れた、と思ってカバンを開けたら・・・。

ない。ない。ノートパソコンとiPadがなくなっている。一体、どこで・・・。

そういえば、列車を降りるとき、網棚の上に置いたカバンの位置がちょっと違っていたのが気になったが、まあ、列車が揺れたりして動いたのだろうと思って、気にしなかった。そして、なぜそのカバンに、今回だけは鍵をかけなかったのだろうか、と後悔したが、後の祭りだった。

手元のiPhoneでiPadを探してみるが、オフラインのままで反応がない。

でも、幸い、パスポートやクレジットカードは無事だった。パソコンのデータもクラウドに保存してあったので、実害はほとんどなかった。

最近、ちょっとポカが多くなった気がする。この間も、パレンバンで古いデジカメを盗られた。年齢のせいなのか、疲れているためなのか。

ショックだったが、しょんぼりしてはいられない。土日を使って、月曜締切の原稿2本、火曜締切の原稿2本を書かなければならないのだ。

とにかく、すぐに代わりのパソコンを手にしなければならない。思い切って、MacBook Airを購入し、18日(火)までに4本の原稿をそれで書いた。このブログもそれで書いている。

原稿を書き終わった後、本当に久しぶりに2時間、昼寝をした。ほんとうに本当に久しぶりによく寝た。

スラバヤは連日の激しい雷雨で、クルド火山の火山灰はほとんど洗い流されていた。16日朝にはスラバヤ空港も再開し、見た目には、噴火の影響は何もないように見える。しかし、スラバヤから車で2時間も行けば、火山灰に覆われ、避難を余儀なくされた人々の場所がある。

スマランからスラバヤへ向かう列車の中で、ボジョヌゴロ付近からしばらく、空の白が異常なほど濃くなっているのが見え、その上に、顔面蒼白のような太陽が見えた。それを見ながら、怖いと思った。再び、3・11後の福島県双葉地方のことを思っていた。

2014年2月12日水曜日

言葉が下手だからコミュニケーションできない・・・

今日、用事があってスラバヤ市政府の役人と会った。インドネシア語でいろいろ説明していると、その途中で先方が言い出した。「せっかくこちらがお前を助けてあげようとしているのに、お前の言葉が下手だからコミュニケーションができない」と。要するに、私とは話をしたくない、という婉曲表現である。

助けてあげたいのにできない、というのも彼らの常套文句で、助ける気などこれっぽっちもないのに、恩着せがましく言うのである。

この役人は、私がいきなりアポなしで会いに来たのが気に入らなかったのである。私は、来週スラバヤに来る訪問団のアポを取るため、正式レターを出す前にどの部署を訪ねるのがよいか、探るために出かけたのである。インドネシアでは進んでいるといわれるスラバヤ市政府でも、全ての部署の電話やメルアドが明記されている訳でもなく、また電話しても途中で切られてしまうことが少なくない。今回、ある程度当たりを付けてから、レターを出す心づもりだった。

でも、役人はレターなしで来る人間には極めて冷たい態度をとる。もしそうなら、あの不愉快な役人は私と会うのを拒み、「レターがなければ会えない」と言いさえすればよかったのだ。それを面会に応じ、いやそうなそぶりを見せながら「お前を助けたいのに、お前の言葉が下手なせいで助けられない」などとわざわざ言うのである。結局、結論は「レターを出せ」なのであった。

こうした経験は、スラウェシやマカッサルにいた時にはまずなかった。数少ない経験ではあるが、それはいずれもジャワでの経験である。言い訳になるかもしれないが、これは決してジャワを悪く言いたいがための話ではないことを断っておく。

ふと25年近く前の出来事を思い出した。前にもブログに書いた話かもしれないが、もう一度書く。あのときは、ジャカルタで日本から来た専門家のセミナーで、慣れないながらも通訳をさせられた。セミナー出席者は模範工場を見学し、その感想を述べる場面で、その模範工場の欠点ばかりを指摘した。専門家は「本当に欠点ばかりだったのでしょうか。ご自分の工場と比べてよかった点は率直に認めることも必要ではないでしょうか」と述べた。私はそれを通訳した。

まとめのセッションで、参加者の感想を述べ合う時間が来た。そこで参加者のほとんどは、「通訳のインドネシア語が下手だからよく分からなかった」と述べたのである。私は泣きそうになった。セミナー参加者は、専門家の言葉に直接反論できないので、通訳を標的にして、自分たちが劣っているということを面前で認めずに済ませたのである。私は、そのいやらしさを痛感しながら、「自分の通訳の能力不足のせいなのだ」とセミナー参加者へ何度も詫びた。

あのときと同じ「いやらしさ」を、今日の役人との面会で久々に感じた。

言葉が下手だからお前とはコミュニケーションできない、と言われれば、そりゃあ、30年近くインドネシアと付き合い、インドネシア語でやり取りしてきたとはいえ、外国人のインドネシア語だし、と思うほかない。この30年で、インドネシア語も相当に乱れてきており、高校生の書くインドネシア語の文章などびっくりするぐらい下手で、赤ペンで添削したくなるようなレベルなのだが、私のはあくまでも外国人のインドネシア語、そう思うことにしている。

気分的なものにすぎないのだろうが、こうした「いやらしさ」の経験が、私自身、どうしてもジャワというものを心の底から好きになれない要因となっていることを否定できない。

2014年2月8日土曜日

日本出張から戻って

1月30日にジャカルタを出発し、2月7日にジャカルタへ戻ってきた。今日(8日)はジャカルタで仕事があり、明日(9日)昼過ぎにスラバヤへ戻る。

今回は、前回の年末年始帰国とは違い、仕事のための帰国だった。2月4~6日に講演やレクチャーなどがびっしり入った。そこで、比較的余裕のある1月31日~2月3日は福島、滋賀、大阪へと動こうと思っていたのだが…。それらはすべてキャンセルとせざるを得なくなった。

福島、滋賀でどうしてもお会いしたい人がいた。今の自分にとって、一番、会って直接お話が聞きたい人だった。

何というタイミングで妻が病気で寝込んでしまったのだろう、と、本当に残念だった。大学受験生の娘もいる。キャンセルした後、ずっと家で、久々に料理を作ったり、洗濯をしたり、家事らしいことを少しやってみた。「お父さんの作る料理はおいしい」と娘からお世辞を言われるのも、まんざらではなかった。

自分にとって、何が大事なのか。大事なものの優先順位を改めて自問した。言うまでもない。何よりも大事なのは、家族だ。

今、自分がこうして、インドネシアを拠点に単身で活動できるのも、家族が健康で元気に過ごしてくれているという安心感があってこそである。いつでも電話やメールで連絡できると分かっているからこそ、1ヵ月に1回しかやりとりしなくても、便りがないのはよい便り、と思うことができる。こんな家族生活を始めてから、すでに7年以上が経った。

チャンスはそうそうあるものではないから、チャンスがあったら絶対に逃すな、という言葉には真理がある。しかし、チャンスを得ることで大切なものを失うこともある。もちろん、逆に、チャンスを逃して、なおかつ大切なものを失うこともある。欲張りな私は、チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。

でも、目の前で寝込んでいる妻を見捨てて、福島、滋賀、大阪へ出かけることはできなかった。

幸い、妻の状態は6日までにずいぶん持ち直した。すぐに回復することを願う。

自分は甘いのかもしれない。世の中で何かをなした人たちのなかには、家族を犠牲にしたり、極貧の状態にあえいだり、病気になったりしても、自分がなすべきことをなそうとして実際になした人々がおり、後世ではその生き方が称賛されたりもする。私はそこまで行けない。

2月5日・6日は、朝から晩までほぼ全日、かなりの数のアポが入った。それを懸命にこなしながら、ふっと気を抜くと、寝不足ということもあり、風邪を本格的に引きそうな、あるいはふらっとそこに倒れてしまいそうな、そんな気分になった。

その意味で、翌7日、家でゆっくり休まずに、飛行機に乗り、インドネシア・ジャカルタへ飛んできてしまったのは、良かったのかもしれない。今のところ、日本で乾燥した皮膚がちょっとボロボロになる程度で済んでいる。

真剣に生きる、ということを、今まで以上に強く思い始めている。チャンスも得たいし、大切なものも失いたくない。欲張りな自分でいきたい。

2014年1月31日金曜日

パレンバン訪問(その2): カンポン・カピタン

デジカメを盗まれた後、乗合に乗ってムシ川にかかるアンペラ大橋を渡って、対岸へ。対岸にはカンポン・カピタンという名前の華人系の人々が古くから住む集落がある。話を聞くと、どうもこちらのほうが市外よりも歴史が古く、パレンバン自体がもともとはカンポン・カピタンから始まったといってもよいようなのである。

細い道を川のほうへ向かって入って行く。質素な家が立ち並び、家の周辺は湿地のような景観である。その一角に、カンポン・カピタンはあった。




カンポン・カピタンに住んでいるのは華人系だけではない。マレー系の人々も住んでいるが、けっこう前の代から住んでいるようである。ここにいると、川から風が吹いてきて、とても気持ちがよい。しかし、川から水があふれて洪水となるのは茶飯事のようで、家も、高床のような構造であり、洪水と共存した生活になっている。

この長屋の向かいには、漢字で書かれた小さな祠が建てられていた。南無阿弥陀佛と書かれている。


さらに、川と反対方向へ行くと、別の長屋のような集合住宅が集まっているところへ出た。ここがカンポン・カピタンの中心と言ってもいい場所のようだ。カピタンというのは、華人系住民の長を指す名称だが、ここでのカピタンは「蔡氏」のようだ。




上の3枚のうち真ん中の写真がカピタンの家。この辺では最も古い建物である。ここを守っているのは、蔡氏の13代目とのことである。多くの親族はカンポン・カピタンを離れ、ジャカルタやシンガポールなどで活躍し、富豪になった者もいる。

カピタンの家の隣が、中国寺院になっている。



中国寺院の隣のカピタンの家には、歴代カピタンの位牌の置かれた廟があった。歴代カピタン一人一人に線香を立てる灰置きがあるはずなのだが、1個を除いて、すべて紛失したという話である。誰が盗んだのかはまだわかっていない。


これら中国寺院や廟の裏が、ここを守る蔡氏13代目の家族が住む、広い長屋のような空間である。



周辺では、子供たちの歓声がこだましていた。子供たちがアイスキャンディー売りに群がっている光景がなつかしい。



カンポン・カピタンに来る前に見た、インスタントな薄っぺらな文化とは相当に異なる世界が、ムシ川の対岸にあった。

ムシ川にかかるアンペラ橋は、夜になると様々な色にライトアップされる。カンポン・カピタンから眺めるイルミネーションは、予想以上に見事だった。あまりにも見事だったので、帰りは歩いてアンペラ橋を渡った。とても気持ちのいい散歩であった。






2014年1月29日水曜日

パレンバン訪問(その1)

インドネシア34州のうち、まだ行ったことのない州が5つある。そのうちの一つ、南スマトラ州パレンバンへ思い切って行ってきた。実質わずか1日という短い滞在だったので、いろいろ見えていないところもあるが、とりあえず、書き留めておきたい。

なお、パレンバンの食べ物編は、追って、食べ物ブログ「食との出会いは一期一会」に書きたいと思う。

パレンバンに着いたのは1月24日夜。片側三車線の広い道路を走る車はまばらだ。道路を渡るには、何が何でも歩道橋を渡るしかない。ここの歩道には、何も置かれていない。何も置かれていない本当の歩道。歩道の下は暗渠排水路となっている様子。

しっかりと整備された道路と夜の人通りの少なさから受ける印象は、「パレンバンは真面目な町」というものだった。夜中に小腹がすいても、食べに行くところがない。

夜のパレンバンに、大モスクとその前にある噴水が光っていた。この噴水は、パレンバンで東南アジア・スポーツ大会(SEA Game)が開催されてからは、SEA Game噴水と呼ばれているそうである。



一夜明けて、街には喧騒があふれていた。道路を通る車の台数は多く、裏道はあちこちで渋滞している。通りには店が立ち並び、市場は人の波で活況を呈していた。

さっそく、前の晩に見た大モスクへ行ってみた。このモスクは、表側が近代的な建物になっているが、裏側は古い建物が残されている。その古い建物の形がユニークなのだ。鐘楼のような高い建物が一番古く、隣の建物の屋根には黄色のヒレのようなものが付けられている。これは龍をかたどったものなのだろうか。


大モスク(Mesdjid Agung)は1748年、パレンバンのスルタンであるマフムッド・バダルッディン1世によって建てられた。建立に当たっては、地元華人たちの支援が大きかったのかもしれない。それが何となく中国風の屋根の形に反映されているように見えるのである。

大モスクから歩いてすぐのところには、スルタン・マフムッド・バダルッディン2世博物館がある。どんな博物館なのか、中に入ってみた。


パレンバン周辺は、4~14世紀頃に栄えたスリウィジャヤ仏教王国の中心であるが、それに関する記述や展示は極めて少ない。スルタンの博物館ということで少ないのはやむを得ないのかもしれないが、石器時代の次にそれと同等の小さな扱いだったのがちょっとびっくりした。

展示物の中に「古い書き物」というものがあり、どれぐらい古いかと思ってみてみると、1800年代のカガナ文字による書き物であった。1800年代の書き物が「古い書き物」なのだ・・・。あたかも、パレンバンの歴史は、スルタンの時代から始まったかのような展示物であった。スルタンの時代以前は先史時代であり、スリウィジャヤ仏教王国の存在には触れるものの、基本的にパレンバンの歴史は実質上スルタンの時代から始まったかのような印象を受ける展示だった。

博物館から少し川岸へ歩いたところで、船を雇い、ムシ川に浮かぶクモロ島という島へ行ってみた。この島には九重塔があり、土日はたくさんの市民がやって来る観光地である。

島に着いて、中国(風)寺院があった。赤や黄色で塗られ、そこに描かれる絵は伝統を感じさせるものではなく、ささっと書いたような稚拙な絵だった。寺院自体は1960年に建立され、2010年にこのケバケバしい色で改築された。


九重塔はその先にあった。2006年に建てられたものだが、建物自体は、まるで巨大な張りぼてのような建物だった。もちろん、そこに描かれている絵は稚拙そのもので、何ら、寺院らしき厳かな雰囲気を感じない。

そう、このクモロ島の寺院も九重塔も、一言で言って、安っぽいのである。文化のかけらも感じることができない。

こんな場所でも観光地となり、休みの日には大勢の市民が訪れ、それを目当てにしたヤシジュース屋が何軒も店を出すのだ。

雨がぱらつくなか、クモロ島を後にして、博物館近くの船着き場へ戻る。船着き場とクモロ島の間には、インドネシア国内最大の国営尿素肥料工場があり、船上でもアンモニアの匂いが相当にきつかった。


船着き場からベチャに乗って、ンペンペを食べて、ぐるっと街歩きをした後、ムシ川にかかるアンペラ橋を渡って、対岸へ行ってみることにした。橋を渡る乗合をさがして、乗り込んで「さあ出発」と思ったとき、乗合の前座席のおじさんが「あんたのカバンからさっき何か盗まれたよ」というので、「えっ?」と思ってカバンを探ると、ポケットに入れておいたお古のデジカメが消えていた。おじさん曰く、犯人は3人組の若者だったようだ。

ガクッと気落ちしたまま、乗合で橋を渡り始めた。


(その2に続く)